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本の感想、雑感、小論考など。 小説、簡単なエッセイはこちらで→「テイタム・オニール」http://ameblo.jp/madofrapunzel2601/
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私・暴力・他者(仮) (第一回)

■〈加害性を有する私〉

 出発点として、こうはじめよう。

私は世界を傷つける。私は世界に在る人たちや事物を傷つける。

 このとき、世界は傷つけられる対象といったものではない。文法問題に置き換えてはならない。あくまで、傷つける私が、世界を傷つけるのである。世界に居る人たちや事物を傷つけ、貶め、破壊するのである。〈加害性を有する私〉という概念の提出からはじめたいと思う。

 私は、どうしようもなく野蛮である。言いかえれば、どうしようもなく野蛮や狂気に彩られているときがある。そんなことはない、とか、そんなときの私は私ではない、とかいうのは辞めよう。私は時に狂気に満ちた存在である。しかもそのことが、近代的な言説たる私=主体の論理とパラドキシカルな形で併存できるのである。

 加害性とは、人間や事物を傷つける恐れのことである。私は時に、もしくは少なからず加害を行使する。現に拳をあげるのは確かに私の手なのである。現に怒りが噴出するのは私の口からなのである。現に人間関係を破綻させてしまったのは私の混乱した精神なのである。

 私という存在は、主体的に自律(自立)しながらもなお、加害を行使することがある。私は危険に満ちた存在である。

 このことを多くの現代人が否認している。人間とは時にどうしようもないほど野蛮なのである。それなのに、理性の信仰によって、現代科学は、現代の道徳は、私を一つの完璧に仕立て上げられた完成品だと見なす。私が暴力をふるうはずがない、こともあろうに私だけは狂っていない、この世には暴力から隔離された場処がある、等々。暴力から隔離された場処がある? 私はひび割れている、そして私は危害を現に加えうるのである。何処に。世界に。世界に存在する人たちや事物に向けてである。

 〈加害性を有する私〉の第二の派生点を述べよう。それは、加害には必ず「応答」が伴うということである。私が時に加害を行使する、その時私が見るのは人たちの涙や怖れる表情、或いは端的に困った顔……。そう、加害には効果(結果)が伴う。しかし、それを私は見るのである。

☆ 

〈加害性を有する私〉 → 主体でありながらかつ、加害を行使する = 私

           → 加害の効果(結果)を私は見る

(続・予定) misty

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 ヘルタ・ミュラーはルーマニア出身のドイツ語作家である。2009年にノーベル文学賞を受賞した。日本語翻訳では、処女作の『澱み』から、『狙われたキツネ』、『息のブランコ』、去年発刊となった『心獣』が読める。

 私は、『心獣』を評したレビューで、ヘルタ・ミュラーが『心獣』の記述においてしばしば採用する筆法を、「ねじれ法」と呼んだ。それは私には、もっと前から彼女の文章に根付いていたのではないかと思っているのである。

 例えば、彼女の作品「澱み」からひとつ引用してみる。


  子供たちは切り落とされた頭を振りまわしながら闇のなかを歩いて行く。大人たちが傍らを通りかかる。女たちは肩掛けをもっと首もとに寄せ、房をいじる指を一瞬たりとも離そうとしない。男たちは厚手のコートの袖で自分の顔を覆う。あたりの景色が夕闇のなかに溶けていく。私たちの家の窓にカボチャ提灯のように灯がともる。  ――『澱み』山本浩司訳 45頁


 登場人物たちの挙動がたんたんと語られるシーンである。文章中では「私たちの家」の周辺(半径5,6メートルの円内?)がどうも起点となっているらしい。そして、どうやらミュラーの作品の登場人物や物は、会話や接触をお互いにしていても、必ず交わることがないようなのである。片一方から片一方への行きつ、来つ、の一方通行のみが語られる。子供たちは歩く。大人は横切る。女たちは髪の毛をいじる。男たちは顔を覆う。事物の相互やり取りの回路は寸でのところで断ち切られ、しかし場は共に在るという、この不思議さを私は数学の概念になぞらえて「ねじれ法」と呼んだのだった。

 ミュラーの作品では、初期に近ければ近いほど、徹底して事物の「孤独」や「孤絶」が浮き彫りになっている。それは引用せずとも読めばすぐに分かることだ。
 そして、ねじれ法はその関連上にある。というより、ねじれ法は先の引用からも確認できたように、彼女の今までの作品の中心に近いところに位置している。その際、二つのことを見落としてはならない。一つは、ねじれ法においては事物相互の連絡を途絶えさせるかのように、片一方ずつの台詞や言動が記述されていくこと。もう一つは、それでありながら、一つの同じ〈場〉のようなものを彼ら事物が演出しているということだ。ヘルタ・ミュラーの「ねじれ法」は両義的なのである。

 そのことは、先の引用の「私たちの家の窓に……灯がともる。」というほんのりとした暖かみを感じさせる一文にも表れているだろう。

 『心獣』では、短文が次々と重ねられ助長な修辞はなるべく排されていたことからして、ねじれ法の効果は絶大なものとなっている。ただし、彼女のこのような書き方は処女作から一貫していたのだろう。

 なぜなら、ねじれ法とは、一つの概念ないし彼女の「方法論」に他ならないからだ――私はあまりこの言葉を好まないが。 それは、人間同士の円滑なコミュニケーションという幻想にひび割れをいれ、独自な世界観のもとで”別の”人間関係像を創出する。事物もそうである。人や、モノは、交流することなく、しかし孤絶しながらなお〈場〉を共にする。

 〈場〉を共にするからこそ、彼女の悲劇主義が映えるのかもしれない。そして、それは悲劇の宿命である。


初郎


■病気の〈現象〉をもう一度主観の視点で構成する

 病気、それは現代においてあまりにも科学的=客観的(科学が〈客観〉objectiveの構成を与え保護さえすること……)なとらえ方をされている。そのような捉え方が支配的にすぎるのだ。
 例えば、ありとあらゆる病気の現象を、どこまでも生理的・身体的要因から起こるものとして解明しようとする(科学の)〈欲望〉。 このような事例は、かつて精神医学においても顕著であった。今はあらゆる医学領域におけるそれの全般化である。


 哲学者・現象学者は、もう一度病気を〈主観〉の側から構成しなおさなければならない。

だいたい、病気とは常に「当人」、つまり主体に「伴う」ものでもある。私の胃の不調、痛み、それは普段健康で何も痛みはしなかったご機嫌な私=主体を、唐突に脅かしてくる。

 私の胃は、はたしてこの時「客観的=客体的」なものなのだろうか? 
 よく、病気にかかると気分まで落ち込む、というが、そのときの病気と気分の悪さはまったくの別物なのだろうか?

 否、である。スピノザの心身並行論。それをとらなくとも、私たちは身体と精神の境界線が非常に曖昧などころか、ぎゃくに大きな精神を基軸点とした唯物論的構成をとることができるのだ。

 病気は、胃の不調は、主体の一部分のようにみえながら、確実に私の「気分」のようなものを害してくる。そのとき、私の胃は「私」という主体とたしかにまじりあっているし、「私」は胃という物的=客体的に捉えられがちなものに脅かされ続けるのだ。

 私は、病気とはひとまず、主体の傍にまとわりついて離れないもの、私を確かに構成しうるもの、つまり精神=私のようなものの一部であるとはっきり宣言する。

 みすてぃ

ニコ生(ニコニコ生放送)

 立場が、その人をすっかり決めてしまうことがある。立場が人(格)を規定する。

 ニコニコ生放送(以下、「ニコ生」)の面白さの本質は、(一)誰もが手軽に配信者になれること、(二)配信者(生主)とリスナーとの間に相互関係性が生まれること、の二点だと思う。

(二)は、

 生主の発言→リスナー1のコメント→それを拾っての生主の発言→リスナー2のコメント→……

という風に続いていく。つまり、ネット環境を介して「風景」が「進行」していく、まさにこのことに驚嘆すべき全てがあった。

 ニコ生は一時期の盛り上がりを経て落ち着いて、そのあと堕落しつつあるように思われる。今回はそのことの究明でもある。ちなみに、私は内在的要因だけを取り掴みたいと思い、例えばツイキャスがめちゃくちゃ流行ってその分だけにこ生が廃れたといった外在的な、荒い説明は最初から放棄する。

 筆者は2012年くらいから、ニコ生を本当に見たい時にだけ見る、という関わりをしてきた。ニコ生の魅力がなくなっていくのに、大体次の事柄が大きく関わっていたように思うのだ。

 (A)生主同士のなれあい

 発生の起源は分からないが、「慣習」としてニコ生にはスカイプを通じて放送中に生主のところに通話が入る、それを受けて「風景が進行していく」という凸がある。現在でももちろんある。

 凸で、生主どうしがとてもなれ合うことがある(それはしばし現実の恋愛関係に発展することがある)。それはしばしばリスナーをほったらかしにする。筆者は、ニコ生の一番の面白さはたくさんのリスナーと生主が何かひとつのやんわりとした空気に包まれるところにあると思っているのだが、生主からすれば放送をする動機の実に多くが「時間つぶし」であるため、特に異性同士である生主どうしの関係は、そういったなれあいになることが多かった。そしてそれはリスナー目線からすると必ずしも心地よいものとは思えないものだと私は感じるのである。

 この時なぜか生主/リスナーという関係性が、さきほど図説した「進行する風景」のヨコのものではなく、れっきとした上下、つまりリスナーは生主の領域には入れない、という風に変化するように感じられるのだ。

 脱構築主義的な視点からいえば、おそらく放送というものは相互関係性(インタラクティヴ)のなかでさまざまな解釈者=視聴者の受け取りによってその度脱構築し、放送そのものが「あちらへこちらへ流れていく」、つまり風景が進行していくのが楽しいのだと思う。

 しかし、現実のニコニコ生放送は、そうならなかった。生主とリスナーの関係はしばし絶対的なものとなって、そのお互いの浸食を究極的な所で阻んだ。

堕落した原因がもう一つ。 冒頭に掲げた(一)に対応するのだが、スマートフォンが普及したことにより、配信が恐ろしいほど簡略化され、かえって過剰を引き起こし全体としての質の低下さえ招いた、ということである。

 つまり放送=表現 の全体の質の低下。量ではない。質の低下。

これがニコ生衰退の内在的要因である。

 いまのニコ生はひとつも面白くない。つまらない日常と化してしまった。

とは思うが、どこかで自分の説明のどこかが足りず、ニコ生はまだ面白みがあるのではないかという希望は持っている。 

misty/uiro

綾子の場合
 陰鬱だった。こんなにも朝が重たいものとは思われなかった。貝原綾子はベッドから身を起こし、脇に置いてある目覚まし時計に目をやった。八時十五分。休日には早ぎか
、と思ったが、綾子はそのまま朝食の準備をした。
 死んだ泉のことが思われた。今はそれしかなかった。あんなに可愛くて素直で、弱気なところもあるけれど自分の意見をしっかり持って生きていた泉……。悲しくて仕方が
なかった。
 どれだけ状況を調べても、筒井泉は誰か他の者によって殺されたという証言や物的形跡は、一つも出てこなかった。しばらくして警察は彼女を自殺と認定して事件の捜査を
終えた。だがそれこそ、綾子たちからしてみれば怪しかったのだ。泉が自殺する理由なんて、それこそ一つも見当たらなかったからだ。
 泉のひとつ年が上の綾子と、それから泉と同級の梅元愛は、大の仲良しだった。綾子は、一度大学受験を失敗して一浪して大学に入ったので、ストレートで四大に入りスト
レートで卒業した泉と愛たちと、学年は同じだった。彼女たちはみな同じ大学で、それぞれ出身は文学部、法学部、そして綾子は経済学部とてんでばらばらだったが、こうし
てそれなりに大手企業の同じ職場に就いていたのだった。
 綾子はストレートで大学に入学していった優秀な同級生にちょっとした引け目を感じており、それは大きなものではないのだけれども、そういった同級生よりも、自分の属
した学年の子たちの方ををより大切に想った。そもそも三人は就職活動でそれぞれ知り合った。当時は就職難と言われる時代で、三人は自分が受けた企業の数の多さを皮肉に
競い合っては、笑うことで未来の不安を共有していた。綾子からすれば、泉は三人の中でももっとも聡明な子だった。会社の中でも目立つ存在だった。男子の社員さえ彼女の
聡明さには一目を置いていたと思う。そんな泉は可愛らしい一面があって、それは実家で飼っているペットの犬への溺愛だった。彼女の溺愛はちょっとどころのものではなく
、自社の机に何枚も写真立てを置いていたし、この子がいる限り私は結婚しないと言ってはよく私たちを笑わせてくれた。
 綾子は冷蔵庫を開けて、中からヨーグルトをひとつ取り出した。食欲はほとんど無かった。でももうあれから一週間も過ぎたのだ。
綾子はスプーンでヨーグルトをすくって、その酸味のきいた甘みを口の中にゆっくり広がらせた。気分に反して外は晴れ、綾子の座っている所まで薄い光が射しこんでいた。
 昼、愛と会う約束をしていた。
 梅元愛は、可愛らしい女性だった。同じ可愛いという形容でも、たとえば筒井泉のそれは知的雰囲気を感じさせつつも、どこか幼くみんなから慕われるような妹的なもので
あるとしたら、愛のそれは、最近の流行りでいうところの森ガールのファッション的な、女性が可愛いと思う可愛さだった。愛は緑のパーカーに、白のフリルスカートを履い
て待ち合わせ場所に現れた。綾子が気付いて、「やほ。」と力なく声をかけると、愛は
 「ごめん、待った?」
という言葉とは裏腹に、にこやかな顔をみせて対面した。
 「どこ行こっか。」
 「んー、この前はパスタだったから、今日はもっとがっつりいっちゃう? お肉屋さんとかさ。」
綾子は苦笑した。
 「ごめん、私そんなに元気ないんだ。」
 「そうだよね……。当たり前だよね。ごめんね。」
 「ううん、いいの。それより、私、前から行きたいと思ってたお蕎麦屋さんがあって、そこはどうかな?」「それ、いいね!お蕎麦、食べたい。」
 「じゃ決まりで。」
二人は行き先を決め、目的の場所へ綾子が先導する形になった。
 泉の死から一週間が経った。誰も傷がいえていなかった。会社のやり取りもどこかちぐはぐだったし、何よりそれまでそこでしゃきしゃきと働いていた泉の席が空っぽのま
まなのが、沈痛にすぎた。
 「……泉のとこのさ、花、月曜日になったら取り換えよっかなって。今の花たち、ちょっともちが悪くて。」
 「あぁ、そうなの。そういえばそうだったかも……。」
ふさぎがちになっている綾子は、なぜこの休日に愛と会っているのか、一瞬分からなくなったけど、それは大事な友人を失ったあまりの寂しさを残されたもので少しでもいい
から分かち合いたいというとても単純な動機だったということをすぐ思い出した。
 綾子は少し頭の中で考えた。
 「日曜日にお通夜があって、月曜日に御葬式があって…。火曜日から、昨日まで、普通に会社は営業した。でもさ、何か変だよね。」
 「変っていうのは?」愛が聞いた。
 「泉が死んで、一定の形式のことが終わっちゃうと、普通に社会は動いちゃって、でも私はずっとそれがおかしく思えて。」
二人の間にしばらく沈黙が訪れた。そして、
 「私もだよ。ずっと。」と、愛が哀しそうに言った。
 「課長は何回も間違えて筒井ー書類ー!なんて言って、みんなを驚かせては一人立ちすくんでいるし、私もその度に落ち込むし、でも仕事には集中しなくてはいけない、そ
れでずっと机にかかりっきりで十二時のベルが鳴ったりするとやったお昼だ三人でランチ、とか急に思っちゃって、隣を見るとそこは泉の空の席で……。あぁ、そうか、泉は
いないんだな、とか。」
 綾子はひっきりなしに語る愛の話をぼんやりと聞いていた。心の欠損。私たちはあまりに三人で居すぎたのかもしれない。
 「まだ受けとめることはできそうにない……。」
綾子の心のうごきを見透かしたかのように、しかし愛は語りを続けた。綾子も哀しかった。そうしてポツリポツリと二人が話していると、目的の蕎麦屋に着いた。
 「なんか、素敵なお店じゃない。」老舗といった、素朴でおもたくない外観の造りだった。綾子はお店の扉を開けた。いらっしゃーい、と、中から主人の威勢のよい声が返
ってきた。
 「あぁ、なんかここに来て急にお腹すいてきちゃった。」綾子はやっと笑った。それを見て愛も笑った。「私も。」
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