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新連載の小説です(どこまで続くか分かりませんが)。


   
柊の樹(仮)

 

 榎島は、変わった本ばかり読んでいる男であった。

彼の同級生ならば、例えば重松清の『ナイフ』とか、森絵都といった、流行している小説を読んでいる連中が多かった。只でさえ小説や本が若い人に読まれなくなっているといって久しいのだから。それでも小説好きな連中は連中で読んだ本の話を互いにするのが好きだったし、普段から本をあまり読まない啓子からしても、そういった姿を目にするだけで自分がついていけないという劣等感を仲間に対して抱くのであった。

 榎島はそういった連中とも違っていた。榎島が手に取っている本の表紙を眺めたりすると、ジェイムズ・ジョイスの「ユリシーズ」という本だったり、三島由紀夫の「仮面の告白」とかいう本を、只一人孤独に部屋の片隅で読んでいたりするのだった。当時の榎島の姿を同級生の誰に聞いても、そういう風に形容する人が多かったように思う。足を組み、椅子やベランダに腰かけて、本をくゆりなくずっと読んでいる……確かに榎島というのはそういう男だった。

 啓子は幼い陰りが未だ見える頃は、地味な存在だった。特に美人というわけでもなく、可愛らしい風貌をしているという風でもなく、縛られた拘束を守り、制服のスカートも基準をしっかり守り、比較的大人びている娘たちが当時隠れて化粧をしたりしていても、啓子は素顔のままで、同じような雰囲気の子たちと一緒に生活を共にしていた。啓子は丸い顔をしていて、割と起伏が平坦な顔をしていた。啓子は肌がきれいだった。何年か経って、思春期を迎える同級生が赤ニキビや吹き出物に苦しんだりしていても、啓子は肌の悩みを抱えることなく大人になっていった。肌の色も、白くて柔らかな雪のようにふっくらとしていて、当時の啓子はそこまでも思っていなかったけれど、友だちの何人かは啓子の肌を褒めたり羨ましがったりするのだった。彼女は背が低い方で、気質も穏やかであった。

 そんな啓子は、当時内から自信を抱くことのできるものが一つだけあった。数学である。勉強は平均より少しうえで、とくに苦手とする科目もなかったが、数学だけは彼女はずば抜けていた。といってもこれは彼女の天性によるものではなく、幼いころからの彼女の父による教育が大きく影響していた。啓子の父親は技術者で、大手の電気メーカーの専門職に携わっていた。根っからの理系質である彼は、自分たちの子供に対して熱心な教育者でもあった。父親は長男と次女の啓子らに、三歳になると足し算や引き算を教えはじめ、塾にも通わせ、塾で分からないことを日曜日にみっちりと教えた。兄弟の中で一番実力を発揮したのは啓子であった。そのことに関しては父親に感謝していた。

 榎島は、趣味だけでなく、その風貌も雰囲気も、独特のものがあった。彼はひどく痩せていて、容姿がいいといえばよかった。髪の毛は両眼を覆うほど長く、眼つきは鋭くて、ひとなみに笑うこともあったが、いつもどこかに共有しえないような暗さと陰りをその表情にたたえていた。彼は周りの連中から際立っていた。それは啓子の目からしても明らかだった。啓子の目には、彼の周りを黒い光線のようなものが微かに包んでいて、それで周りの友達や世界から彼は離れたところにいて、その黒い光はどこまでも重く、くゆりなく、吸い込まれそうなほどの深淵へとつながっているような気がしたが、どこか途方もなく輝かしかった。それを死のオーラとか、或いは堕天使とか、そんな風に形容することもできたのかもしれないが、はっきり言って啓子は一目榎島を見たときから恋に落ちてしまった。それはひどく激しい恋だった。

 彼らは中学二年生に上がった頃だった。彼らの中学校はかなり人数が多く、多くの地区から人が集まる普通公立校であった。中学一年になってそれまで馴染んでいた小学生の時からの友達も疎遠になることが多かったが、啓子にとっては中学二年生に上がって初めてのクラス替えを迎えて、自分のクラスの中にまったく知った顔がいなかった。啓子は思い出す――自分の教室に入って、不安な気持ちで自分の席についても、話す相手がいない。誰かが入ってこないかと、扉の方を見ても、入ってくるのは喋ったこともない人ばかり。トイレにいったり、他の教室で友達を見つけて互いに寂しいよなどと言い合って漸く時間が潰れて、そうする頃にはそれぞれの担任が教室に来て最初のホームルームが行われる時間だった。ほとんどの生徒が着席して、何人かは前後や左右の席同士で会話をしたりしている中、ふと啓子は一冊の本を手にしている榎島の姿を見つけた――彼は後ろの右端の席で、椅子を引いて足を組んでじっと本を読んでいた。そのとき、窓から射すまだ時間帯の早い朝の陽光が榎島の側面を見事に照らしていた――彼は宙を浮き、まったく時空が違ったところに、存在しているかのようだった。啓子の耳には静寂しかなかった。静寂と、時の止まりが――自分の足元と、そこから離れたところで本を読んで腰かけている榎島の二人分の距離だけしか、存在しないような世界が啓子の目の前に立ち現れた。それは啓子が後に何度も何度も追体験する光景になった――思い出すたび、意図的に、或いは不図、追憶するたびその光景は新鮮さと純粋さを増し、彼らは青みがかった透明な空で対面していることもあった――榎島は、小さくて分厚い文庫を開き、それらの頁を実に楽しそうに眺めているのだった。その時の彼の優しい表情や、彼が放つ雰囲気の全てが、啓子の心に激しい嵐を巻き起こした。啓子は青空の只中にいて、彼女のそれまでの全ての歩みを揺さぶり、心臓をほとばしらせ、幾重に重なる眩暈を起こすほどの、激流の嵐そのものだったのである。

……ただそうした時間はほんの一瞬であった。その次にはもう担任が教室に入ってくる声が聞こえ――啓子はハッとして自分の席に着き、そうして何事もなかったかのように時間は過ぎていった。

つづく

misty

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 川端康成の小説には、芸者(芸子、舞妓、旅芸人など)がよく出てくる。代表作に限っても「雪国」や「伊豆の踊子」など。殊に短篇作品の「伊豆の踊子」におけるそれは特別だ。そこには川端康成の芸者たちへの深い愛情といったものが感じられる。

 芸者は、当時の日本にあって、「そうなく生活を余儀なくされている」といった位置づけをなしている。貧しい金銭的状況の設定が多く、だいたいはその生活圏内から離れないといったパターンが川端作品の中では多い。むしろ、川端の設定した男主人公の方が、場所をうつろい、どこか現実逃避的で、彼らの元を「訪ねる」「訪問する」といった趣きが強くなっている。

 川端の設定する主人公は明らかに「芸者」の人たちの世界に惹かれているのだが、「なぜ自分は此処にいるのだろう」といった内省を川端が記述することは稀だ。むしろ、主人公と芸者たちの会話や心のやり取りを静かに描くことで、かえって私たち読者にその淡くて儚げな関係性を強調する。

 主人公たちは、決して芸者たちを身分の低い者→貶められる者というロジック、感覚で見ない。そこには、おそろしいほど深遠な態度がある。一言では表せないのだ。ただ寄り添うといった態度でもない。筆者には、川端の描く主人公たちは、芸者たちの世界に「何故か、いつも引き寄せられている」とでもいった受動性、事後性のもとに動いている/動かされている心情をかんじる。

 「伊豆の踊子」では14,5歳くらいの踊子に、「雪国」では駒子に恋心、むしろ多大で不思議なほどの淡い好意を寄せている(この恋心もまた一考を要するほど不思議で深遠なものであるのだが)のだが、彼らに愛の告白をするでもない。「一緒に生きよう」と娶るわけでもない。むしろ、主人公たちは一人二人の女性を娶るほどの経済的状況にはあるはずなのである(それがなければ「雪国」のような放蕩な生活はまさか送れまい)。そして、その愛の告白や「決意」に満ちた言葉を、彼女/彼らも、待っているわけでもないし、しかし待っていないわけでもないのである。常に彼らの関係は不安定なものとなる。しかもその不安定さは、否定的・ネガティヴなものではなく、常に物語の円軸を揺り動かし、周りの世界に動も精もあたえるような、根本的で人間的な、そういった意味での不安定な関係なのである。

 「偶々、いきつくところによって彼らと一緒に居る――」。このような態度、もしくは心情が、川端の描く主人公たちには在る様な気がする。それは、川端自身が経験したことが決定的に影響しているのかもしれないし(彼自身の「伊豆」の度々の訪問など)、あまり影響していないのかもしれない。しかし、そのことに対して主人公たちは「即断」をしない。矢張り「寄り添う」といったことばが一番適切なのだろうか。芸者たちに、芸者たちの必死の毎日に、告白を迫るでもなく、去るわけでもなく、ほんのひと時のささやかな祝福を共にするために、寄り添う――そのような愛情に近い、不思議な感覚が川端作品には横たわっている。それを言語化するのは非常に難しいのだが。

 こういった川端作品における芸者たちの世界の描き方、描かれ方は独特であり、それは川端文学の必要不可欠で根本的な要素をなしていると筆者には思われるのである。

misty 

 こんばんは。mistyです。今は2015年の12月29日。帰省ラッシュというか、年末に突入しました。
 今年は個人的に文学方面でわりと充実したなと思っていて、来年ももっと頑張っていきたいと思えるようになりました。
 小説や文学は一人だけでは広がることは不可能で、目の前の本を書いた作家たちのみならず、友人、先生、自分の書いた小説を読んでくれる家族などを通して、どんどん人の輪が広がるようなものでもあるので、そういった小説や文学のチカラを大切にかんがえていきたいなぁと思いました。
 エッセイを書いて、今年のブログの締めとしたいと思いました。
みなさん、よいお年を。


***

文学の流通と課題(私的エッセイ)


 昨今になってますます、小説と呼ばれるものの本の出版が、数も夥しくなってきた。いろんな本がありすぎて、わけがわからないくらいだ。過剰な出版で困るのは、次から次へと新しい本が出されるのはいいのだが、大して買われたり読まれたりもせず、闇へ消えたり、図書館の書庫いきになってしまうという現状だ。人々の趣味・嗜好が細分化・多様化し「たように考えられ」、それに合わせて様々な本を書ける書き手が生まれて、出版もそれに合わせて、ということなのだろうか。それは一見あっているようにも思われるが……

 例えば、小説は多いのだが、エッセイとか、難しい批評本といったものは、比べて枠が限られている。小説は読みやすいものも多いし、何より古くからのリターチャー的メディアなので、小説産業自体が盛んなことは望ましくもあるのだが、僕は小説やエッセイや批評を書く身(今はアマチュアだけれども)なので、小説外でもエッセイや批評本がもっともっと人々に興味をもたれて読まれてほしいな、と常日頃思っている。

 それで、批評本はあとに回すことにして、エッセイは有名なエッセイストが何人もいるし、実際エッセイはその性質上「読みやすく深い」ということから、多くの人に愛されているジャンルでもある。
 エッセイを書くことは難しい。エッセイの文章は小説の文章を書くときに要る注意力と何も変わらない。真剣にエッセイを書かなければ、いいエッセイは生まれない(これは私の定理だ)。

 しかし、ここからが重要なのだが、優れたエッセイストを育てる環境は、今の日本の状況では、厳しいものがあると私見では思っている。というのが、エッセイストを目指そうとして、例えば公募でエッセイを出そうとしても、エッセイ原稿を募集するほとんどの公募は、「母にちなんだテーマで」とかの、外在的な、条件付きのエッセイばかりを求めてくるからである。これは実体験だが、本格的なエッセイを書きたいと思っても、書いたところで、出す場所がとても少ないのだ。読んでくれ、このエッセイはみんなに読まれてほしい、といくら願ったところで、その場所がない。これは問題である。
 おそらく、エッセイを、大半は有名人やタレントが書くものだということになっているからであろう。在野のエッセイスト、極端な例だがエッセイを書くだけで食っていこうとする人はまずいない。小説家がエッセイを書いたり、著名な人がエッセイを書いて人気を博することはあっても、エッセイそのものを極めようとする人は今の日本にはあまりに少なすぎる。

 小説はたくさんの枠がある。エッセイは限られている。そして何より一般の、芸能人でもないし特にタレントも持っていない、しかし文学的資質と努力を不断におこなっている書き手がいくらいたとしても、エッセイを発表する場がない(少なすぎる)。どうしたらいいのだろう。

 批評や哲学的論文については、最近群像社が名前を変えて「群像新人評論賞」というのを設けている。条件は70枚以内の作品提出で、批評の対象はなんでもよし。名前が変わる前は、文学評論が主だったのが、ナンデモアリになったことで、おそらく優れて面白い評論文ならば、対象がアイドル批評でもサブカル論でも音楽批評でも何でもよいのだろう(その可能性は無限にひらかれている)。これは大きな転換点だと思った。
 しかし、そのような新人賞を設けているのは、群像社くらいである。とりあえず、批評や哲学の文章で名を馳せたいと思ったら、今は群像に出すのが一番の近道ということになるのだろう。しかし、それでも群像一社である。

 批評は、大学研究をある程度積んで卒業をした人ならば、わりと書くことができる。それをもっと努力し、技術を高め、自己の知識と見解を広めれば、もっともっと多くの批評本がうまれることにちがいない。難解のイメージを持つ批評・評論の世界にも、息吹がふかれるかもしれない。

 小説は、十分すぎるほどにマーケットで流通している。願わくば、エッセイや、評論といった、人々の文学観・教養に欠かせないような大切な本、文章が、もっとこの日本に広まる、そしてそのような環境作りが整っていけたらいいなと、複雑な気持ちで思うばかりである。

misty


又、こうも言う……。

・シャワー

熱の粒。〈一粒〉〈一粒〉の滴が上方から螺旋状に皮膚を表面を凪いで削いで廻りつたわりつたっていく。〈一粒〉は臍のあたりで集まりはじめてすこしずつ大きくなりまた一つの〈水〉をつくる。水滴は熱を内在的に持つか。液体の温かみ……くしゃくしゃになって汗に絡み絡まれた髪の毛に覆いかぶさって油と水はひとまず混合する……この風呂場という場に於いて。なおもシャワーのゴム管はぐにゃりぐにゃりと弱まった蛇のように巻き/巻かれてシャワーの〈水〉をあたりに撒き散らす。事故―事件。思わぬところ不意をくらって急いで〈温水〉を止める、、、キュッキュッという蛇口をひめる金属が擦れる音。静か、なんだ。外の光が差し込んでくる――真昼間の只中。独りでこの独房に収められているのだここは監視カメラが仕掛けられているんじゃないのかい。努々気をつけなよ。視点の錯綜。ふたたび〈身体〉のなかへ戻り、眼を瞑る……。もう一度じゃぐちをキュッキュッとひねってはとび出だしたるは温水、針のごとくに顔の皮膚に優しく柔らかに流るること如何に。飛ばしていく、意識を、洗い流していく。〈身体〉の流れは、〈温水〉とともに混じりあって床のつめたいタイルの端っこ、排水溝にすべて消えていく……。火照る。熱くなる。夢の感じだからね。ここは風呂。まだ流し足りない。そのうち、光る。皮膚が光ってゆく。我ハ発行体ナリ。シャワーに絡み/絡まれ、ワタシと共に一緒になって、温度の感覚ただそれのみに向かって。

 

又、こうも言う……。

・鈍行電車

橙に染まった物質の一節にするすると、まるでするすると侵入し、一区画を横領する。外はまた橙色に染まっていた。ひきずったようなひきずられている身体に心地よくまとわりつく緑色の記憶たち……。まどろむわけでもなく、覚醒するでもなく、いつも私はこの場所でぼんやり、ぼんやりとしていた。心地よいのだ。世界はひとまず消失に向かい、別世界がそのうち開けてくる。「トンネルを抜けると静謐であった」。キズ。疵。壁面を細かく眺めていると、あれよあれよとたくさんの落書きが書かれてある。座席にもあちらこちら。I  Love You、ユキとツヨシは永遠の絆、タクヤと付き合えますように、マブダチ宣言!、うちらは最高のふぁみりぃ、幸人先輩大好きっ、等々――。ああここには愛が刻まれている。安っぽくて俗でありきたりで健やかで愛おしい、そんな愛の文字たちがガラス窓に映る夕日のきらびやかな反射を受けて輝いているのだ! 愛するものが流れていった。誰かがここに座り、誰かがここに愛を書きこみ、誰かがここを立ち去る。夥しい人の流れがこのシート一つ分にさえある! 日は西へ傾いていく。目的の駅が近づいてくる。人はまばらに動き始めた。愛の流れ。

misty

 アイドル哲学序説
・はじめに オタク的主体?
 アイドルの現場――専用劇場からドームコンサート、握手会といったイベントまで――ではいったい何が起こっているか。それを本稿は現象学的に読み解こうとするものである。その際、二つの主体が問題となってくる。一つはアイドルの主体(アイドル的主体)、もう一つはオタク・ファンの主体である。本稿での議論の半分をアイドル的主体にあてるものとして、ここでは簡単に後者のオタク的主体について触れておく。
 そもそも、オタク的主体という言葉が成り立つのか。すなわち、オタクに主体性はあり得るのか。彼らは極めて欲望に従って、各々の利害関心の及ぶところだけで動いているように思われる。好きなメンバー、好きなグループしか応援しないし、お金を落とさない。逆に、大好きなメンバーには握手会などで何回も回るという「ループ」現象が広くアイドル現場において見られることが、オタクの動物的欲望(※1)といったものを裏付けている。
 だいたい、近年のアイドルは、「恋愛禁止」が掲げられている(AKB48が象徴的であった)。この恋愛禁止制度とでもいうものは、アイドルのみならずファンたちに大きく影響する。アイドルの個々のメンバーとファンが「付き合ってはならない」という当たり前のことを殊更大きく「再表象」することで、ファン=オタクたちは精神分析用語でいうところの「去勢」をうけるかのように見える。ここに、オタクたちのアイドル現場での様態が分極化するのである。ひとつは、去勢されたことで、生々しい性の空間を離脱し「マイルド」な恋とでもいった状態を生きること。オタクとアイドルの関係は生々しい性関係を抜きにした、純粋――?――な愛の空間を構成する。しかしもう一つには、禁止されたことでかえって抑圧された欲動を回帰させ、倍以上に噴出せしめるといったオタクからの視線――アイドルからの視線も理論上はある――が発生するのである。オタクはここに二重の視線を絡ませることになる。オタクはアイドル(メンバー)を脱性的なものして見ながら、かつ倍加された性的欲望のまなざしでも見つめるのである。
 そもそも、現象としてのアイドル――それはアイドル、ファン、そして運営といったアクターから成り立つ――は極めて性的なことがらである。オタクが脱性的なものとしてしかアイドルを見ない、ということは以上の理論からしてもあり得ない。しかし、私たちは後に見るように、アイドルたちの主体化の進行を目の当たりにすることで、かえってオタクたちの(主体的)変化をも観察することになる。

[1] 「欲望」や「欲求」という言葉の使い方については、東浩紀の『動物化するポストモダン』最終章が参考になる。


misty
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