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前回の記事・・・ 第一回  ■はじめにーー文学、哲学、政治 ■彷徨

第二回 (タイトル未定) 哲学文章

■資本主義あるいは富と貧の政治学

 近代の成熟期は経済学の誕生と軌を一にしている。ここで(古典)経済学の成立条件を専門的に調査する余力は私にはない。しかし、経済、つまり貨幣と人々の具体的な生活との関数=関係という概念が前景化した要因は何であろうか。それはおそらく、国家(権力)による、人々の集まりとしての「人口」の発明である(M.フーコー講義録『安全・領土・人口』を参照されたい)。国家というものがおそるべき求心力をもちはじめたそのとき、人々=人口の生産力が問題として国家上層部の議論の俎上にのぼり、「国力」や「豊かさ」といったものが新たに語られるようになる。全体としての豊かさ。それはフーコー的な、統治―操作の対象としてである。経済という概念が、そもそも何かを抽象している(および捨象している!)のは間違いない。そして経済は、何よりも近代と国家の産物であることが重要なのである。

 資本主義によって貨幣を中心とした人々の生活が自律しはじめる(ように見える)。そのカギがマルクスの見出した「資本」と「剰余価値」である。マルクス主義者のそれらについての諸々の説明はまだ不十分であるが、とにかく「生産」というシステムによって国家と癒着した経済社会が具体的な人々を大きく支配するようになっていった。さてそれでは「生産」とはいったい何なのであろうか? 近代―資本―経済の中心であった「生産」とは?
 問題提起をしたところで、本論の筋に戻りたい。

■〈時〉と球

 人間は彷徨する。
毛糸状の線としてのリゾーム的生―線は、無重力的である。国家、資本、宗教による抑圧機能が近代にくらべて低いのである。その結果、個人の生―線は浮遊した形になるわけである。私たちは近代という歴史を解明することで、一つのモデル構築を試みている。その意味で本論は近代論を参照しつづける。

 さて、生―線の時間的構成をかんがえよう。それは、直線的な、一直線で進む時間概念(過去→現在→未来)からすると異質である。それはまるで過去=現在=未来といったような、ただ一つの〈時〉、永遠時間を無限に違ったやり方で反復=行為するという生き方としての時間なのである。どういうことか。
 一瞬にして永遠といったような時間が、この世界には確実に実在する(※1)。私はそれを、一直線の時間概念に対比して、ただ一つの〈時〉と呼ぶ。〈時〉とは永遠にして、瞬間でもあり、全ての時間なのである。そして、同じような瞬間瞬間を、私たちはいくつもの(終生八十年なら八十年分の)異なったやり方で、生きているのである。

 生―線の空間的構成については、ブログでは割愛するか、若しくはのちに補足として扱う。申し訳ない。

※1・・・ この永遠時間、一瞬時間の議論については、拙論文「実存主義の新たな形式」を参照されたい。リンク

misty


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(タイトル未定)

■はじめに――文学、哲学、政治

 ドゥルーズは非常に熱心な文学研究者でもある。書物それ自体が大好きであったのだろうと私は思う。プルースト、カフカ、そして晩年の『批評と臨床』に至るまで、彼の文学へのアプローチは揺るぎないものがあった。ドゥルーズ=ガタリの一連の仕事をよく読めば分かるのだが、彼らの哲学がいかに文学者、作家からの影響を受けていることか。
 ドゥルーズは、言うなれば哲学=文学の人であったのだと、敢えて言ってみたい。彼の哲学は文学と不可分であり、文学を思考することからドゥルーズの哲学はかなり作られていった。

 かたや、哲学と政治の結びつきといったものがある。ドゥルーズは政治といったものから遠ざかっていた人だった。もちろん彼の管理社会論は有名だが、それは『記号と事件』でほんの少し語られているに過ぎず、しかも彼の管理社会論はフーコーの議論との結びつきが非常に強いのである。
 哲学と政治といえば、例えばカントがある。ホッブズがあるし、スピノザがあるし、ヒュームがある。ところで、政治といったものの地平には、ずいぶん哲学の複雑な世界よりも単純な主張が飛び交うことがある。政治的スローガン。政治哲学の複雑な理論は、実際の政治上の主張では不要だというのだろうか。政治には、どうしても複雑さを嫌う傾向がある。それは緻密な作業を避けているということだろうか? そうではない。実際の政治では驚くほどの緻密な作業がある。しかしそれを支えているのは割とシンプルな理論であったりする。

 本論の目的の一つは、人生論のモデルを構築することである。それは最初に文学と哲学を重視する立場から検討される。しかし、ドゥルーズのように、文学と哲学に傾いて政治を避けるというわけにはいかない(彼を継承するなら、なおいっそう)。ドゥルーズは政治の問題を別に心底から避けていたわけではない。
 人生は、文学的でも政治的でもある。そして、物事を冷静に思考する力、すなわち哲学は、そのような文学と政治から等しい距離にあるべきだ、と私は考える。
 そのような観点から、本論を開始する。

■彷徨

 人は彷徨erranceする。人間は迷走する。
無方向、あらゆる方向に延びる生ー線は、毛糸状の線である。第三の生の線が、無規定的生ー線に他ならない。
 人が辿る道、すすむ人生は、けむくじゃらになったのだ。無方向。けたたましい躍動。どうしてそのようなことになったのだろうか。


 近代においては、生ー線は上下に伸縮していたと考えられる。それは主に国家と資本主義と宗教が織りなす三つの巨大権力の作用に他ならない。個人の生(-線)は国家イデオロギー、経済(市場経済)イデオロギー、宗教イデオロギーからいわば吊りあげられ、下方に配置されたまま(ここで国家対個人といったような垂直的構造が生まれる)、上下の関係に固定されたのである。そういった暴力的起源は、下方に向かう「弱者」(外国人、貧民、異端者etc)からは「声」が奪われ、名誉・報酬のシステムによって上方に向かう個人からは批判力が奪われることによって、覆い隠されてしまう。
 近代では国家、資本主義、宗教が完成されている。そのことの原因の探究は後に広範に論じていくつもりである。ここでは、資本主義という経済システムについてすこし見ておきたい。

misty



 ペンと紙から何が生まれるか? 聖書の新しい解釈、革命理論、ジャン・ジュネの獄中手記……。通常の力とは無縁の、ある種の仕方での力が生まれるのだ。精神的力動。それはすぐさま届かず、家族や友人に届かず、時を超え、空間を超えて、二百年後の地球の裏のみすぼらしい少年によって初めて読まれるのだ。新しい歴史の証人としてお前の名前は刻まれるだろう、墓碑に、紙に、そして様々な人々の脳裏の裡に。

 あまりに騒々しい、テレビ空間とネット空間。テカテカにムースを塗り付けた髪の男が言う、「お宅の家に夢は要りませんか!」 要らない情報ばかり、不必要なものは私たちの体内の奥底に溜まって、異臭を放つ。塵に等しい社会。百本足のムカデが走る、浸食する、私の体内と、テレビ空間を。喰らえ、喰らえ、なじって、喰い尽くし、ただ屍をのみ貪り食う悪魔となるのだ……お前は人間の魂の掃除機であり、ついに人間は蟲たちに取って代わられた。

 金色の髪の子、茶色の髪の子、創造性がない。自由な髪の色を許さない社会は、自由を重んじていない。紫色の髪色をしたコンビニ店員、マックで見かける緑色のメッシュが入った男、失恋したあとにショッキングピンクに染め上げた貴方の髪の整い。職業柄が悪い、挑発的だから悪い、そういうのが馬鹿げていると思うのに、いつまでたっても変わらない。

 死人が世界を歩く。死人は既にあの世の世界だ。死人は現世に戻ってきている……だが何の為に? 死人の行進。だれだれが、いつ死んだ、島で死んだ、どう死んだ、自殺、他殺、交通事故、強姦、戦争、世界の数だけ死の理由があった。死人は何を求めてこの世を行進するのだろう? さらなる生を求めてか? 死人の一人がこう叫んだ、「なんだぁ、ここも地獄じゃねぇか!」 それを教えるためなのか、つまり、あの世は作られる必要がなく、ここでこうして生きていること自体が死に没入していることと等しいのか。死は栄光となったのだ。今や死にたがる人が一番多く、それを勝ち取ったものは栄えある聖者である――。

 敵がいる! 目の前にだ! 敵をやっつけろ! 敵は機械だ、機械をはちゃめちゃに壊してしまえ! 我をぼろぼろになるまで働かせ、金もくれず、ただひたすらに従属させるこの機械……剥き出しの暴力なら此処にある。鉄パイプを振り回す、ガラスが割れる、エンジンが破壊される……。人間、お前も歯車の一部だ。人間、お前も所詮〈機械〉の一部品に過ぎないんだよ……。なにぃ、敵は私の中だ! 私を殺せ! 私ごと殺せ! 脳を拳銃でぶっ放す。

 日が窓越しに確認できるのは良いことだ……部屋の内と、外で分かれる。涼しいクーラーの風が入って、心地よい。日はそれだけでエネルギー。ベッドに横たわって、まだ許される惰眠にかじりついている人もいる。あと熱いコーヒーさえここにあったらなぁ! 静謐を好む。静謐の中に感じ取れる、心の、精神の、内的情動が好きだ。そういう世界で生きていたい。それはただの願望かも知れない。でも太陽は誰にも等しく在る。空気のなかの熱の粒子となって……そして窓越しに現れるのだ、幾度も幾度も、はじまりの合図として。

(続く) misty
In rhythm 3 ――(自戒) 1


 言ってはならないことが在る。それは言ってはならないが前向きに進むためには必要な事柄である。おそらく大切すぎるがゆえに言ってはならないのである。言いかけた言葉、を、飲み込んで……。君はそれでいい。君の心の内だけに存在すればよい。しかし、誰かに話したとしても、その誰かは貴方を認めてくれるだろう。そう、そういうことだ、と。しかし、おそらく話してはならない。どのみち、しゃべりすぎはよくない……。


 言葉を得るために言葉を離す。放つ。言葉は確証。のくせに訂正可能。え、ことば、言葉なんてひどいものだよなんににもなりゃしない! 幸せにはならない。言語学的転回など以ての外。言葉をしゃべる存在はひとまず人間であり、こんなにも過剰に話すのは人間だけであり、ゆえに人間は瑣末。


 君をリメイクする。顔の形にあった髪型……もちろん君の希望に沿って話はすすめられなければならない。ロングにしたいのであれば、僕は顔の形との相性ゆえにショートが似合うんだ、と主張し、結局セミロングに落ち着く。あと君は唇がとても豊満で魅力的だ。いい香りのするリップクリームを持ち歩くというのはどうだろう……香りの種類は豊富。甘いのだけじゃないと思う……柑橘系の香りのリップクリームが無いかどうか今度探してみる。瞳の大きさはもうそれだけで君の武器だよ……分かってる。結局自分好みの女にしたいだけでしょ? 僕は答える。もちろんそうだ。そうだけど……たぶん僕も「カワイイ」の正体をつきとめたがっている。僕の欲望が。僕の欲望だ。「カワイイ」に溢れる社会がいったいどこに向かおうとしているのか、「カワイイ」に翻弄される僕はいったい本当は何を求めているのか、心の奥底で知りたいんだ……カワイイ社会、カワイイ区、カワイイ女の子、カワイイ男の子、カワイイ犬、カワイイ猫、カワイイ爬虫類、カワイイ歯ブラシ、カワイイTシャツ、カワイイ車、カワイイ観葉植物。Hello, Kitty1!! YOU ARE KAWAII!! ところで君は美しい。ウツクシサは僕にはリメイクできない。リメイクできないウツクシサ、美、美は精神的概念か身体的概念か。これは問い間違い。君と何度も触れあっていく。


 光を崇拝するか、光を手中に入れるか、そうではなく、光の中心と成ることが貴方にはできるか。


 自らに向かえ! 自らにカメラを向けるほど自分の内奥を勘違いしやすいようになっている。着飾りすぎるな。禅をするのもよいだろう……ただし考え事を無にしてはならないだろう。いつか自分なりの答えを出す。それは時間をかけてやがて他人や家族やさらに将来の自分から覆されるかもしれない、しかしとりあえず答えに辿りつけ、とりあえずの結論に! 世界にカメラを向けろ、そしてその世界に自分が含まれていることを理解せよ。


 ヘゲモニーばかり……闘争ばかり……争いばかり……暴力ばかり……世界を遠くから見ることしかできない近くで感じるにはあまりに刹那に過ぎるから。闘争を逃走に変えたい闘争から離脱したい……そう思うこともある。なぜ私は暴力を振るうのか? 暴力哲学が常にあなたにも必要、だけど君はペンと紙をもっていやしない……怠惰倦怠疲労倦み虚無誤認酩酊朦朧曖昧虚偽惨事。酒はいらない。金もいらない。いや、待ってくれ……! 千円だけ貸してくれ、お駄賃を俺にくれ。


 マラルメの詩も、people in the boxの歌詞も、似た処がある……マラルメの詩句は今読んでもさっぱり分からないが、言葉の配置がとても綺麗に思えて、単語やセンテンスが愉しげにダンスをしているような、そういう立体感さえ見えてくるのだ。People in the boxの歌詞も、大半は訳が分からなく、時たま激しすぎるほどに鋭い表現が胸の裡に響いてくる。彼らは言葉のさらに先をいっている。言葉を使いながら言葉ではないものに方向が向いている。言葉の先。それは、発話をする人間のさき。


 哲学は必要か、人文科学は役に立つのか、という問いは、そもそも日本で成り立つものである。つまり、社会が哲学や人文科学を役に立たせるという前提を折り込んでいる社会では、それらは役に立つのである。哲学や人文科学が役に立たないとしている社会ではそれらは役に立たない。日本は境界例である。大学などの社会制度は西洋由来でありながら、未だに人々の心的意識は前近代の産物を引きずっている。だからといって啓蒙が必要になるのか? 啓蒙とは光、民衆を導く光の活動のことである。神は死んだのだ……。


 生まれたことが悲劇だ。ならば生きることを喜劇に変えよう。


 僕の戦争論、貴方の戦争論、僕の平和論、彼の平和論、先生の非―暴力論、一個下の幼馴染の暴力―哲学、二軒目の印刷会社の社長の暴力論、広島の平和論、議論することが戦い、戦いから逃れること、独り言をいうこと、戦争論から逃れて文学の真っ只中へと向かうこと――。


(続く)
055ひっそりと再開。
幾つかの記事を非公開にしました。あまりにも見栄えが悪すぎるので…。

デザインも変えました。

 通常のブログ記事を書くかどうかは分かりませんが、いま新しく書いている小説などをアップしていけたらなと思います。

 夏から「夏の夜に語るは夢々」という、二人の女性が会話をするような小説を書いています。

それをアップします。

夏の夜に語るは夢々  作者:misty

(1)

 ねぇ、桃子、なんだって私たちはいつも同じ場所にいるんだろうね。もちろん、すれ違う時だってあった、すれ違うどころか、ぜんぜん会ってもない期間とか。でも、そんなのごく僅かだね。私たちは生まれたときからご近所さんだったし、あ、生まれた病院まで一緒だよね、しょうがない、田舎育ちだもんね、所詮ね、私たちは。そう、生まれたころからご近所さんだし、もう幼稚園では大の仲良しだし、それが、変わることは、なかったんだね――ずぅっと。不思議だなぁ。私が、一番愛した人とか、付き合った人よりも、そんなもの比べ物にならないくらい、一緒にいるんだね。高校を出たらさ、桃子、あなたは普通の大学に行きたいって言ってた時もあったから、まさか私が受けてた専門学校を桃子も受けてたって全然思いもよらなかったよ、高校の進路を考えるときはさ、さすがに私たちも色々考えたよね。無駄話になるけどいい?……私は今でも自分がやりたいこと、なりたいものって何かはよく分かってないけど、私なんか進路ってすごく焦ってたんだよね。うん。勉強ができる桃子が羨ましかった……実は。えへへ。桃子のきりっとした、自立した感じ、それって全然昔から変わってないと思うなぁ、自立とかは言い過ぎかもしれないけど、とにかく桃子は昔から自分の軸みたいなものを持っていた。桃子は強い人だと私は思う。そして私はいつも弱虫。今でも。
 専門学校はさすがに課が違ったけど、私たちはそこでもいつも一緒にいたね。一……影山くんはさすがにいなかった。私たちの世界から消えていた、ね。消えていたというか、自分が飛び立ったというか……。とにかく影山くんなしのはじめての時期で、結局私たちは離れることがなかった。これはけっこうすごいことだと思う、うん、私は。私は影山くんが私たちの世界に現れてから、何となく三人でこの地球は回っていくのかな、なんて、考えたことがあったんだよ。若気の、青春の考え事だけどね。でも私たちは影山くん抜きで世界を進んでいけたんだね……。

 うん、杏子、私はこの際だから言おうと思う、大事なこと。でも、杏子には分かっていると思うの。最初から重たい話を持ってくるなって? うん、うん、でも……。私、ずっと気がついてたよ。影山と一緒にいるべきなのは、杏子、あなたのほうだって。私は、影山にずっと憧れていた。影山の傍にいたかった。でも、釣り合わないのが分かっていた。影山の隣に本当にいるべきなのは、あなたの方だって思ってた。でも若かったから……私は悔しくて、それを分かりたくなくて、それで色々杏子と張りあったりしたんだろうね、同じ人を二人で取りあったりしたんだろうね、懐かしいね。影山はどうしているんだろうね。あいつのことだから、きっと、どんな世界にいても、立派にやっているんだろうね。ほんと何やってるんだろう。外資系のサラリーマンとか? 今頃海外を飛び回っているかもしれないね……あとは研究者になったりだとかさ。頭、良かったもんね。だから、うちらは高校でても地元の専門に通ったけど、影山だけは一人東京に出て行っちゃったもんね……。あいつがさぁ、大学の夏休みのときにこっちに帰ってきて、初めて私たち三人で会ったじゃん、覚えてる杏子? 私は、もうその時の影山が、昔の影山じゃなくなったな、て感じたんだよ。何というか……遠い人のように感じた。しゃべり方とか、私たちの三人の中にいても、なんか違和感があった。私たち二人はそれだけ距離を縮めて、逆にあいつに対する空気を薄めていたように思う。あの時の影山、何だか緊張してた。笑う時、いつも無理して笑ってた気がする。別の空気をまとってきたんだ、この人は、と思った。私と杏子が同じ地元の専門に通っていたとき、この人だけは東京で暮らして、東京の空気に囲まれて生きていたんだな、て。

 そうだね、桃子、私と、影山くんとの間でさえ、なんだか胸苦しくなる瞬間瞬間があったよ。私たちは、昼にいつもの駅で待ち合わせて、それから街をぶらぶらして、カラオケに行って、それからご飯を食べに行った。厚い日だったね。ねぇ、覚えてる桃子、プリクラだってとったんだよ、三人で! おかしいよね。私、本当に高校時代に影山くんと付き合っていたのかな、なんて思ったりする。私と、影山くんの間には、いつも桃子がいたから。私たちは三人で一つだった、そんなときがあったように思う。カラオケでは、懐かしい曲を歌ったりして、みんな盛り上がっている風だったけど、そのうち影山くんが、お酒の飲める所に入らない? て言い出して、それは私たちは別に構わないけど、て言ったら、影山くんは妙に、それまで飲み屋なんて行ったことなかったくせに、張りきっちゃって、結局彼が先頭になって、しばらく店探しをしたよね。あのとき、変だったなぁ。どのお店でもよかったのに、ここは安っぽいチェーン店だ、ここは鶏肉がいいけど桃子は脂っこすぎるモノは駄目だから辞めにしとこう、なんて仕切っちゃってさ。誰も頼んでないのにね。それで入ったお店が、洋風の、ちょっとお洒落な所で、それまで私と桃子はそんな敷居の高いお店に入ったことないから緊張しちゃって、なのにそのお店に連れて行った影山くんが一番挙動不審で! おかしかったな。それで私たち、ほんとどういう料理なのかよく分からずに注文して、出されたものを口にするでもなく食べて、桃子、覚えてる? あのお店のチーズフォンデュだけはとても美味しかった。だから、私たち、今でもあのお店に行くよね。影山くんだけは絶対に覚えてないけど。変な話聞きながら、とろけた熱々のチーズを口に頬張りつづけたの、覚えてるなぁ。

(続)
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