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 「昼顔」の第二回放送、見ました見ました。

いま、水曜日の「若者たち」と、あとなぜか先週は土曜日にやってた金田一の実写版も見てたのですが笑、

 「若者たち」と「昼顔」では圧倒的に後者かなって思います。

昼顔はうまい。登場人物の心象風景のうつりかわりが面白い。

やはりアクシンデントを引き起こすきっかけになるのはリカコ(吉瀬さん)で、それをさと?分からん笑、上戸彩役がゆるやかに静かに惑わされていく。

でも第二回のあの終わり方は良かった。

第三回は予告の感じだとリカコさんに焦点がいきそうだけど、全体の見どころは上戸彩(そらそうだ、主人公なんだから)なので、あとあとも楽しみ。

 「若者たち」はとてもセリフがうるさい。劇ならいいのだが、あれはドラマ。劇をドラマにもってきましたとかそういうのは要らない。

 白熱ぶりがいいでしょとか言われても、いえ別に…としか言えない(苦笑)
でも第三回はとてもよかったので、まだまだ継続して見れそうです。

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 打ち間違いとか、単に「私」でいいのに「〈私〉」となっていたりと、原稿を読み返すだけでたくさんの間違いがあります。。



承前 (前回は 直前記事) 


 僕は音を聞いていた――様々な音を集めたその一枚のCDが、当時中学生の僕をよくある音楽好きの少年に育て上げた。さきほどいつもの用事を済ませて何の気なしにかけた九トラック目にさしかかって、その曲は僕にとても執拗な感情を迫ってきた。つまり、哀しみについて、考えろ、と。そう言われてみればそれは哀しみについての曲、でもある気がした。ある気がしたと言うのは、その曲は単純な言説では説明できなかったからだ。僕はその音の理解にいたってなかった、と言うべきなのだろう。そして、それの解明に、解明などと大それたことを言わずともできれば寄り添うことに、僕の思考と身体は向けられた気がした。それ以来、この“問い”について、考えている。

 

絶望。絶望、絶望がおそいかかってくる。はっと気づけば私は絶望そのものとすり替わっている。例えば、あの時は何もかもが終わりだった。そう思う時があった。そしてこのせまくるしい身体からこのちっぽけでむせび泣いているたましいを、何とか解放してやりたかった。それには鋭利な刃物と、それからすこしばかりの勇気が足りなかった。苦しみ。生きていることが苦しいということ。苦しみは確実に私たちを蝕んでいく、醜い蟻の大群が死んだ蝉をどこまでも食いつぶしてやがて蝉は文字通りもぬけの殻になる。身体は痙攣しやせ衰え、魂は活気をなくして呆けてしまう。諸悪の根源は、いつだって人は人から生まれてくるということなのだろうか? 私はいつまでたっても血縁から要請される、お気楽な期待のかかった、規範的な同一性を身につけて生活をしなくてはならないのだろうか。

 「それは無理だ・‥・‥。」 ひとつの声が応じる。私を見てくれ、余所を見るんじゃなくて、この私の有様をもっとよく見てくれ・‥・‥お願いだ・‥・‥。などと。

 

 やってくる絶望とセットになるものに、いったい幾つもの形容がつけられるだろうか、ヘンリー・ミラーの恐ろしいまでのリストアップのように? それは例えば堕落でもありうるし、うつ、自己倦怠、メランコリー、ノイローゼ、ヒステリア、困惑、葛藤、ジレンマ、衝動、発作、動悸、いやもういい……。大切なものから、見放されたら、誰だって悲しくなる。それが度を過ぎると、物事はもっと大きくなる。そういうものだ。そこにおいて、人はある程度の人間関係を制度的にも、それから心理構造的にも、植え付けられている。条件なしの人間など経験上ではなかなかありえないということだ。

 だとすると、重要なことは、そうした幾つかの前提――生まれてきた年、生んだ人、祖父祖母、親戚、もちろん生まれてきた場所、その環境、瑣末なことには生んだ人の頭脳知数といったものまでも……どこまで前提の対象として含むかは程度の差もあろうが――をとりもなおさずいったん受け止めて、そこから物事を思考すること。当たり前のように聞こえるが、そんな作業もこうやって経験上のことをテキストにしたり、とにかくこの身から引き離して対象として捉えるということ――それが必要である。

 人間は少ない武器しかもたないのだろうか? 武器、たしかにそれは少ないものでよいのだ。自分の手に合ってくれれば。身軽で、しかしそれを装備すればきちんと自分の中心点に戻ってくれるような。


(続く)


哀しみのこと

蜜江田 初郎

 

 

……光の微粒子と花

 

光の微粒子。それは哀しみの微粒子でもある。光の微粒子が集まって、一つの波を形成する――さざ波のざわめき。それぞれの波がまた合流して一つとなって、この硬い胸の裡を強く打ち、私はある感情にさらされる。死、そして死の方へ。違う、これは絶対的な死に対する憐れみ・悲しみではないのだ。優しさがある。何に対する優しさだというのだろうか。人、人生に対する、人が静かに人生を終えることに対する優しい眼差しなのだろうか。その天使のような眼差しが私をも捉えると、私は今から死ぬわけでもないのに、とてつもない繊細さの世界に引きずり込まれていく。生きる、死ぬ、花。花は添えられなければならない、捧げられなければならない、私たちの手によって。私たちの手にかかって。

 ここから何かがはじまるというのだろうか。追憶の作業が? 生、人生において、ありとあらゆるものが私を幾度となく絶望にいたらしめた。幾度となく怒りを覚えた。自分の不甲斐なさを破壊してやりたいとさえ思った。そういう諸々のことが全て、この時点において、無―化されるのだろうか、跡形もなく、一抹の埃さえも残らず、最初から無かったものとして、そうつまり構成されるものとしての私とは全くの無関係になると? ならば、なぜ。それをも慈しむ、そんな時間の猶予が与えられているというのか。確かに絶望や怒りの経験は私のひとつふたつの構成であった。もうそんなことを思い返して再び泣くこともない――。

 私は救われるに値するのだろうか、私の経験した苦しみは浄化されえるのだろうか。困難と向き合ってきたことの意味は何なのだろうか。いや、〈私〉は死なないし、これからも生きていく。そうした時、出会うであろう絶望や苦しみを、こんなに慈悲ある態度で迎えられるだろうか? 確かに、いずれ全ては終わる。無に帰す。だが私はまだその準備もできていないのだ。ならばなぜ涙が止まらないのだろう。

 あの人は、何らかの人々の苦しみや困難といったものに対して、メッセージ=表現を与えている。憂いの音楽。光の微粒子を含む波は、今や落ち着いたリズムで私たちの心をうつ。死ぬ、死。死には花が捧げられなければならない。何故か。紳士さというよりも、優しさ、労りの心。全てを終えた存在に対して、現在を生き続けなければならない私たちからの、せめてもの応答行為。花を添える、ダリアの花。それによって、人生を全うした人は、はじめて救われるのだろう。ならば、私たちは、死者に対して、よい音楽、その人が愛してやまなかったロック・バンドの曲とか、あるいはショパンの悲愴とかをできる限りこころ丁寧にかけてあげて、そして花を手向けるのだ。

 私はまだそちらの人ではなかった。花を捧げる人の方だった。しかし、生きるものも、いずれは死ぬ。生と死。やがてその境界が曖昧になるとき、或いは思考作用によって曖昧になったとき、私たちは、死に行く人の苦しみに、花を捧げるという〈一つの〉行為を、それだけを忘れずにしなければならない。光の微粒子の波は、やがて消え、天井の方に上昇し、私たちの下には静寂が戻り、あるいは日常が再開されて、やがて非―日常のことは物事の奥の方へと押しやられる。そこから叫ぶ声も、その声を伝えるのも、私たちしかいない。


(続く)

 このブログを更新するのは久しぶりです。

パスワード忘れてなくてよかった←


 昨日、木曜日夜10時からOHKで放送されている「昼顔」、第一話観ました。

まぁ作業しながらですけど。

上戸彩の髪型がかわいいと思った← 笑

 彼女、特別美人でも、それから超絶可愛い、とかではないんですけど、たしかに何か魅力があるんですよね。

 たたずまいが自然体? オッサンが好きそうな人ですよね。ノリがいいし。

若いころは、この子は可愛いイメージでいってた気がするんですよ。
 今は変容期なのでしょう。 そういうところに着目してみるのもあるいは面白いかもしれませんね。


それで、「昼顔」なんですけど、面白かったです。


 語りたいのは、吉瀬みちこ演じる”奥さま”から主人公への、誘惑。

だいたい、この二人は「普通なら」何の接点も持たない、ご近所以外において、という所。

 社会階級――という言葉を敢えて使おう――には、現代にいたっては、ノン・コミュニケーションがある。

 つまり、「あそこの豪邸の○○さんの奥さん、不倫しているらしいわよ。」っていうのは、近所のおばちゃん=大衆 「のみ」で交わされる言説であって、 ふつうはお金持ちの人とお金持ちでない人との付き合いというのは、突然には発生しない。


 そこに今回の「昼顔」の発生点がある。
結びつきえない(もしくはふつうはその結びつきというものを考えにくい)ものが、何かしらの偶然かあるいは必然、つまり「然る」事情によって、関係することがある――。

 このとき、吉瀬みちこ演じる(すみません登場人物の名前をまだ把握しきれてません←)妻から、

不倫や浮気など文字通り「未」知の世界である主人公へ、強引な扉への通路が差しだされる時、

たしかに主人公はそれを端的に拒否する。 しかし、ドラマ=劇 の流れはそういかないのだろう(それは常とう句だから) 。

 つまり、端的に拒否しえないものが心性のなかに潜んでいる――  これを、ドゥルーズの用語を借りて、〈出来事〉の発生、あるいは事件と呼べるのであろう。


 事件がいつ起こったかはさして重要でない、いかにして起こったか――そして展開するか。

 吉瀬が放った、逸脱したものへの扉は、どのように開かれるのか。 




   そんなこんな。     レファレンス; ジル・ドゥルーズ『記号と事件』(インタビュー集)  
(承前)

 新田はその日の昼間のほとんどを寝て過ごした。そうでもしないと、体が持たなかった。最近は特にそうだ。社会人になってからというもの、新田にとって1週間とはこの土曜日を除いた6日のことに他ならなかった。時間を無為にすることは躊躇われたが、結局それが一番サイクルを回すのに一番いいやり方だと思っている。

 夕方も日の暮れに近づいて、ようやく体の中に力が回復してくるのを感じた。今週の仕事がそれほどきつかったわけではないが、疲れは必ず癒しを必要とした。新田は自分の机の上に乱雑に放られた、コンビニで買ったカツとじ丼と麻婆豆腐弁当の空容器をぼうっと眺めた。窓からカーテン越しに射す夕暮れの光が、日中ももう長くないことを知らせる。新田は、繁華街にちょっと出かけよう、と思った。起き上がって、ニュースをチェックし、歯を磨き、ひげを剃った。適当な服を選んで、身につけ、部屋の電気を消して、軽い荷物とともに部屋を後にした。

 

 地下鉄で移動する際も、新田はイヤフォンをつけて音楽を聴くのを好んでいる。宇多田ヒカルのPassion。この曲は、レディオヘッドの「Kid A」以降のエレクトロニカにも十分通じる要素のある、幅広い曲だと改めて思った。選曲をRadiohead15 stepsに変えた。くたびれた車内の温かい座席にそうして座っていると、携帯の着信音が鳴った。再びまなみからのメールだった。

 

  From まなみ To 自分

    (titleRe:無題

        明日の夜空いてたら、バーとかどうかな? 日曜日だからお互いそこまでお互い早めに切り上げる感じだけど。私が一杯おごってあげるからさ(笑)

 

 

 まなみは今何かに困っているのだろうか? 少なくとも新田はそう感じた。例えば貧困に苦しんでいる第三世界の幾人もの人のように? 新田自身は明日の夜だったら空いているし、元カノとはいえ一杯の酒を付き合うくらいだったら全然大丈夫だ。でもまなみの一連の挙動からは、何か怪しいものを感じた。それはもしかしたら新田があまり踏み込むのが適切ではない類の事柄のように感じられた。新田は気持ち悪さを感じつつ、いったん返信をした。

 

 

 明日の夜はたぶん10時ぐらいなら大丈夫。場所は前のとこだよね?

 まなみ、何かあったら遠慮なく電話くれよ。





(つづく)
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