哀しみのこと
蜜江田 初郎
……光の微粒子と花
光の微粒子。それは哀しみの微粒子でもある。光の微粒子が集まって、一つの波を形成する――さざ波のざわめき。それぞれの波がまた合流して一つとなって、この硬い胸の裡を強く打ち、私はある感情にさらされる。死、そして死の方へ。違う、これは絶対的な死に対する憐れみ・悲しみではないのだ。優しさがある。何に対する優しさだというのだろうか。人、人生に対する、人が静かに人生を終えることに対する優しい眼差しなのだろうか。その天使のような眼差しが私をも捉えると、私は今から死ぬわけでもないのに、とてつもない繊細さの世界に引きずり込まれていく。生きる、死ぬ、花。花は添えられなければならない、捧げられなければならない、私たちの手によって。私たちの手にかかって。
ここから何かがはじまるというのだろうか。追憶の作業が? 生、人生において、ありとあらゆるものが私を幾度となく絶望にいたらしめた。幾度となく怒りを覚えた。自分の不甲斐なさを破壊してやりたいとさえ思った。そういう諸々のことが全て、この時点において、無―化されるのだろうか、跡形もなく、一抹の埃さえも残らず、最初から無かったものとして、そうつまり構成されるものとしての私とは全くの無関係になると? ならば、なぜ。それをも慈しむ、そんな時間の猶予が与えられているというのか。確かに絶望や怒りの経験は私のひとつふたつの構成であった。もうそんなことを思い返して再び泣くこともない――。
私は救われるに値するのだろうか、私の経験した苦しみは浄化されえるのだろうか。困難と向き合ってきたことの意味は何なのだろうか。いや、〈私〉は死なないし、これからも生きていく。そうした時、出会うであろう絶望や苦しみを、こんなに慈悲ある態度で迎えられるだろうか? 確かに、いずれ全ては終わる。無に帰す。だが私はまだその準備もできていないのだ。ならばなぜ涙が止まらないのだろう。
あの人は、何らかの人々の苦しみや困難といったものに対して、メッセージ=表現を与えている。憂いの音楽。光の微粒子を含む波は、今や落ち着いたリズムで私たちの心をうつ。死ぬ、死。死には花が捧げられなければならない。何故か。紳士さというよりも、優しさ、労りの心。全てを終えた存在に対して、現在を生き続けなければならない私たちからの、せめてもの応答行為。花を添える、ダリアの花。それによって、人生を全うした人は、はじめて救われるのだろう。ならば、私たちは、死者に対して、よい音楽、その人が愛してやまなかったロック・バンドの曲とか、あるいはショパンの悲愴とかをできる限りこころ丁寧にかけてあげて、そして花を手向けるのだ。
私はまだそちらの人ではなかった。花を捧げる人の方だった。しかし、生きるものも、いずれは死ぬ。生と死。やがてその境界が曖昧になるとき、或いは思考作用によって曖昧になったとき、私たちは、死に行く人の苦しみに、花を捧げるという〈一つの〉行為を、それだけを忘れずにしなければならない。光の微粒子の波は、やがて消え、天井の方に上昇し、私たちの下には静寂が戻り、あるいは日常が再開されて、やがて非―日常のことは物事の奥の方へと押しやられる。そこから叫ぶ声も、その声を伝えるのも、私たちしかいない。
(続く)