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本の感想、雑感、小論考など。 小説、簡単なエッセイはこちらで→「テイタム・オニール」http://ameblo.jp/madofrapunzel2601/
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 レーモン・クノーの「地下鉄のザジ」を読みはじめた。方言? 最初から俗語的表現のオンパレードで楽しい。

 セリーヌの長編作品のそれは、完成度においても集大成といった形をなしているように個人的には思われるのだが、こういった作家の名前を思い浮かべて行くうちに、日本の作家の中上健次のことが思われた。

 中上健次の小説においては、風景描写などは非常に淡白で少ない言葉で、キリッとさせるような効果があり、文体そのものは非常にドライである。しかし、『枯木灘』などの「路地」シリーズにおいて、物語そのものが、被差別部落といった、一般に想定されている社会状態の人々とは異なる社会の人間関係を展開している。

 台詞の応酬も非常に独特で、紀州の方言に満ちている。そこからは、舞台は日本であるはずなのに、「どこか別の場所での物語」といったような想像性を産む。

 中上健次の小説は、日本という場所や人物、表象を扱いながら、非常に世界的=遍在的なのである。それは、社会が困窮化したときに「現れてくる」、社会状態の必然の姿なのかもしれない。

 セリーヌの幼児期から青年期へと至る自伝的エピソードを交えた「なしくずしの死」でも、主人公の家族が非常に逼迫した家庭環境を巧みに、執拗に描いている。そのため、主人公のなりふりや言動はどんどん荒んでいき、パリの汚い街並みそのもののように、不穏で、猥雑な世界観が形成されていく。 

 社会が非常に困窮・低迷化した状態を描いた、もしくはそういう設定のもとで舞台を演出している小説作品を思い浮かべたら、例えば椎名麟三の「深夜の酒宴」などがそうではないだろうか。戦後の非常に経済や衛生状態が悪い町の、ぼろアパートに住む青年の姿を描いたその作品は、頽廃という一言に尽きている。そういえば差別表現もばんばん出ていた(苦笑)

 「深夜の酒宴」は、社会の不平等といった階級問題への問題意識が間接的に表れているという点では、レーモン・クノーの「地下鉄のザジ」やセリーヌの作品群とは少し違うかもしれない。というのは、後者は、社会階級への問題意識という政治的問題は、直接にはあらわれてこないからである。対して「深夜の酒宴」は、物語の中に、民主主義・共産主義といった、戦後間もなくして非常に日本を湧きあがらせた戦後民主主義による復興への懐疑的眼差しをのぞかせている。椎名麟三の頽廃的ムードは、そうした社会の不平等への批判意識や対抗といったものすらせせら笑い、おとしめてしまうような暗さをたたえている。

 それから、最近の日本の小説においては、西村賢太などがいる。そういう意味では、現代でもなおこの、「社会の不平等状態を間接・直接に描く文学作品」は古今東西を通して普遍的に存在し、さらにそこからの「不穏さ、猥雑さ、世間から外れたという頽廃的意識における描写」というものも、あるように思われてくる。

 それは、もしかしたら「不良文学」とでも呼べるものなのかもしれない。

 なお、不良文学を語るにあたって、昨今の日本の政治状況にひとこと付け加えずにはいられないと筆者は思った。自由民主党は長らくネオリベ的な、経済第一主義の政策をとっているが、そうしたネオリベラルな政策をとってる限りは、社会の不平等は絶対的に構成・維持されていくのである。だから、経済が仮に上向きになって、国家にお金が集まるようになっても、肝心の国民の側に大きな亀裂・分断線が走っていく。政府や国家は大きくなるかもしれないが、社会階級というマルクスが提出した問題がいつまでもゾンビのようにつきまとわり、国家としてはそこが統一の妨げになっていくのだと思われる。

 それが続く限り、不良文学はずっと不良のままでいるであろう。不良はスターでもないし、望まれるべくして生まれた存在でもない。しかし、文学では不良を語れるだけの実に広範な、最大限に大きな自由がある。そうした文学が不良を実在的に構成していく限り、全体政治への警告以上のものが営まれていくであろう。
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フェルディナン・セリーヌへの愛が止まらないこの頃である。
 去年の冬~春ごろに頑張って?「夜の果てへの旅」を読んで、以来すっかり魅了されてしまっている。それより前に愛好していたヘンリー・ミラーの、長大な文章と自伝的な構成という類似点もあって、長らくこの二人の作家が僕の心の中心をしめるようになったが、ミラーもセリーヌも魅力のありあまる存在だ。

 今、「なしくずしの死」を読んでいる。客観的に面白さを伝えるのが難しいかもしれないが、とにかくこの本は面白い。ギャグセンスもしかり、文章もますます畳みかけるような呻き、罵声、猥雑さに満ちていて、これ以上に自由な文学作品があろうかと思うくらいだ。

 でも、二十世紀のフランス文学は、プルーストやセリーヌだけでなく、実に様々で豊富な内容を抱えているな、と気付いたのが最近だから、僕はいけない。
 もともとフランス文学は一筋でも二筋でもいかないところがあるが、二十世紀のフランス文学に限ってみても、シュルレアリスム文学、実存主義、ヌーヴォー・ロマンと流行も多岐に渡る。

 そして日本への紹介も非常に豊かになされている。澁澤龍彦などが主軸だったのだろうと思うのだが、ブルトンやクノー、ジャン・コクトー、哲学者でもあるバタイユや遡ってマルキド・サドやなど、フランス国内でもあまり評価のされていなかった小説家もいっしょくたにして輸入しているところが面白い。

 僕は生田耕作さん訳の「夜の果てへの旅」が好きで、ジャン・ジュネの訳も幾つかされているし、まだレーモン・クノーの「地下鉄のザジ」を読んでいないので生田耕作訳をさっそく図書館に予約した。読むのが待ち遠しい。

 二十世紀のフランスの哲学は、いま現象学のミシェル・アンリの本なども読んだりして、ここ一、二年でやっと概要を掴めた、という気もするのだが、文学はまだまだこれから。というか全体を見渡せそうもない。フランス文学、入門、案内などと検索してみると、幾つもそれらしき入門書や概説書が出てくるが、どれを読めばいいのか分からない……(がとりあえずどれか一冊を読んでみるつもりである)。

 野崎歓さんの『フランス文学と愛』で、モリエールやディドロなどの「近代の前半」の古典作家、劇作家や小説家などの名前を知ることはできたのだが、十九世紀~二十世紀がまだ良く分からない。外国人が書いたフランス文学論などを読んでみても、知らない名前がけっこう出てくる。作品は無限の宝庫のようにあるようだ。

 ただ、一つ思うのは、二十世紀のフランス文化は、ほぼ中心点の50年代に、サルトルが君臨しているということだ。サルトルは小説も戯曲も書いたし、もちろん哲学的にも多大な影響を与えた。その人以前と、以後で、様相は大きく異なっている。文学者・哲学者サルトルが誕生するまでの流れと、サルトルが亜流になってからの文学界/哲学界の流れという図式で整理するのが、一つ、フランス文学をより深く理解するうえでも重要かもしれないなどと思いはじめる。

 そもそも、サルトルの現象学は非常に小説チックなところがある。だからというわけではないが、ミシェル・アンリも小説を三冊か四冊書いているし、他者論のレヴィナスなども実は小説の構想があったということだ(『現代思想 増刊号 レヴィナス』のエッセイによる)。現象学は文学に似ているのである。現象学を理解することで、フランス文学をもっと違う面から見ることができるかもしれない。ただ現象学は異常にむずかしい……。

 最近の日本はますます翻訳文化が進み、特にアメリカ文学とラテン文学がものすごい勢いでその魅力を伝えているように思われるが、僕は逆にもっと過去を遡って、先人が探し当てた作品の光を後追いしたいと思う。

 これから自分の愛読書をドゥルーズの『差異と反復』とセリーヌの『夜の果てへの旅』ですということにしよう。それでは。


 アフォリズム形式でちまちまと連ねている「狂人の断想」という作品があったのですが、

「詩的影像(仮」 といったんして、またこの単語に何か加えて最終タイトルにしようと決めました。

「影像」というのは少なくとも、ホッブズ『リヴァイアサン』の第一部に出てくる議論・概念で、原義が気になるところではありますが、まぁちょっと思いつきです。


そのなかからまた一つ載せてみようと思います。

ブログに、書きたいことがたくさんあるのですが、いろいろいそがしくて、書く時間も取れず。

でも、

・アイドルと性愛の関係について 

 これはけっこう拡がりそう

だし、

・ドラマ「昼顔」レヴュー

 こっちもきちんとやりたい!

 しかし、直近では、指原梨乃『逆転力 ~ピンチを待て~』という人生論の新書にカルくやられてしまったので(笑)、その書評をやろうかなと思います。

さしはらさんすごいから・・・笑



 それではひとつ、

「フロリダからコーヒーへ」


フロリダから一種の防衛戦―線をはってここまでつなぎとめる、苦いコーヒーの味。暑い夏だからレモン果汁がよく染みる。私この前筑波に行きました、とてもクリーンな街並みでした、それ以上も以下もなし。そのあいだにもこぼしたコーヒーでできた一本の線に、蟻が群がる群がる、レモンの果汁に群がる群がる。それは駄目です、捨てておきなさい違うんだ母さん。所詮は子供、さりとて百七十回の奇跡をおこなう。白い宝石を見つけた時が全てのはじまりだった。そうこうしているうちに蟻は群がる、こぼしたコーヒーとレモン果汁に蜜を求めて群がる群がる。おい、今鐘の音が聞こえなかったか、幸せの音が、いやあれは単なる時報だ。鐘の音を聞いて神経症にかかった老人がいた。今や群がった蟻はたちどころに黒々とした領域を作って、こぼしたコーヒーやらレモン果汁やらを全て埋め尽くしてしまった、それらの存在など跡形もなく奪い取ってやるかの如く。


それでは。  ういろう

 この記事の表題であるが、アイドルをめぐる社会の目線は、明らかに、一般の人々にしてさえ、間接的あるいは直接的な意識への規定作用をなしていると思われる、性愛という点において。


 性愛とは、性に基づく私たち人間の行動や意識の様態のことである。

AKBが「国民的アイドル」と称されるようになってから、人々の性愛行動は少しずつ変わっていっていると私には思われる。むろん一部であるが、それは性愛の領域と他の領域との関係図式が変わってきたからだ。

 端的に言うと、性愛を狭い場所に閉じ込めるアイドル時代の精神は、(1)生々しいキスや恋愛、そしてセックスを匂わすものを予め排除する、(2)のだが、結局性愛というものは完全には押し込め切れないものだから、暗き場所からの噴出として、まさに「暗きもの」と再定義されて噴出してくる、(3)その噴出したものを捉えて、例えばスキャンダル誌などで取り上げる


 といったものである。AKBは分かりやすくアイドルメンバーに「恋愛禁止」という行動規制を掲げる。その代償として、やらかしてしまった者に対しては、ファンのルサンチマンやら関係ない人々の騒ぎたい一心やらが混ざって、非常なスキャンダルとしてマスコミに報じられたりする。つまり制圧を受けるのだ。

 その片方で、性愛は、特にセックス行為を内包する性愛は、本当に狭い所に隠匿され、秘匿され、押し込められる。 

 私たちは、「クリアで健全な社会」の表象を演じる代わりに、「ウラの顔」をそれとして代理=表出させる。

 しかし、このウラの顔がバレたりすると、ふたたびクリアで権力を持ったほうの社会が再攻撃を加え、私たちのウラの顔にはさらに「暗い」ものが付与される。


 、、、、結果として、次のような事態が待ち受ける。


(A) 我々は、たしかにクリアで健全な社会を常態として受けるが、その中でコミュニケーションを楽しむという新たな性愛(?つきの、だ)の様態を創出しつつある、


(B) 隠匿されたものとしての性愛の様態も、その政治力学(発見される、バラされる)関係を続行する


といった具合にだ。         ういろう



 まいどまいど内省的なことで申し訳ないが、「法を超えるために ホッブズ、カント、スピノザの政治哲学」という小論文がやっと出来上がった。

 読みたい人は、この記事の一番下にあるメールアドレスまで、「論文読みたい」と一言申してくれれば、Wordのファイルを添付します。 若しくは、ドロップボックスなんたらを使って、そこに置いておこうかな。

 以前からちょいちょいホッブズに言及していて、学部生の時に習ったホッブズを考えたいなぁと思った結果、カントとスピノザの政治論も付き合わせる感じになった。

さて、これからどうしようかと見切りをつけるための、整理です。

・バトラー、個がシステムと向き合うために

まず一つ。 ジュディス・バトラー(若しくはヘーゲル)の承認論=自己発見論を、90年代的なシステム論と付き合わせて考えてみたいというのが即急の目論見としてある。

 ヘーゲルの主人と奴隷の弁証法は、要するに自己と他者の世界記述である。90年代のシステム論は、ある意味で、自己vsシステム、自己とその自己を取り巻く環境の関係、といった世界観を想定している。

 現代において、個(人)とシステム(個に対峙するものとしての他者のある連なり、社会、無意識の集合、世間などなどとも言い換えられると思う。これは、少し検討を要する) が対峙するとき、システム固有の(構造上の)問題がそのまま素通りされて、というよりますます個の方に責任の押し付けといった形で攻撃の刃が向いてしまうという悲しい現状がある。

 小泉義泉さんが『現代思想 (2014年)1月号』に寄稿された論文は、うまくシステム論の問題点を短いセンテンスで要約している。

 しかし筆者は、なお個から出発する(それは、個という形態ではありえないかもしれない)抵抗の担い手が、何らかの形でシステムにうまく攻撃をし、システムも巻き込んでいくという方法は、この時点ではまだあるんじゃないかぐらいに思っている。

 というのは、例えばジュディス・バトラーは、どうやら「倫理的主体」という概念を考えていたらしいのだ。らしいというのはまだそのへん読んでいないのです。

 そして、ある論文によると、その「倫理的主体」とは、フーコー後期的な「個の倫理への転回」といった仕事と多く関係があるみたい。

 バトラーは、あくまで抵抗もしくは反応の場所を「個」の側の方に置いて思考しているフシがあるのではないか。

 それでは、具体的には「倫理的主体」はどういったもので、どのような戦略地図を描くのか。
これを探求する(或いはまとめること)、戦略地図の意義とその射程。

 そして、「個」の側というより、システムへの攻撃・関与という側面をもっと意識した攻撃の仕方の、あるのかないのか、どんな戦略地図か。


こういったことを、考察してみたい。


これは、ある程度必読文献が揃っているのではないかと思っている。

 大きな書物として、バトラーの『権力の心的な生』あたりを通読・精読しないといけないのかもしれない。その他としては、既読文献『自分自身を説明すること』も使えるだろう。

・『現代思想 臨時特集 ジュディス・バトラー』
・竹村和子さんの著作・論文
・斎藤環『承認をめぐる病』  これは、個とシステムをめぐる考察を描いた論文が実際にいくつかあって、とても刺激的だった。
・『現代思想 1月号』 小泉論文など


とりあえずこれくらいを片手に、まず最初に取り掛かれる仕事だと思う。


・アガンベンの主権批判

 これは前からある構想ではある。しかし、その時は「国家主権を廃棄するためには」みたいなことを考えていたが、どうもテーマが大きくなりすぎる。

 アガンベンは、『ホモ・サケル』の第一部『主権の論理』で、確かに通常の主権の理論を刷新する議論を行っている。

 そこから彼はグアンタナモの収容所の人々や、『アウシュビッツの残りの者』ではアウシュビッツの人々、彼らを生み出すに至った・「例外状態を生産する生政治」とでも呼べる分析をしている。

 これはうっすら理解できることだとしても、「じゃあどうすればよいのか?」という次のステップの思考につなげていくことが、とても難しいのである。近年のアガンベン自身の理路もそのような難しさとある程度関係はしていると思う。

 とはいえ、今回は、議論尽くされた感じのあるアガンベン中期の政治哲学に、あえてまた再調査しようかなとも思う。一つは、『ホモ・サケル』『例外状態』といった著作を丁寧に整理したいということもある。
 いま手元に岡田温司先生の『アガンベン読解』があったのでパラパラ読んでみたが、この本はアガンベンの政治哲学の議論にはそこまで触れていないのである。むしろ、中期後期の神学研究もおさえて、全体としてアガンベンの哲学の方向性を取り出していこうというプロジェクトがこの『アガンベン読解』のモチーフである(と僕は思う)。

 何やら『現代思想 特集アガンベン』は、彼に批判的なものがとても多いみたいなので、ここらで一つ、間抜けな行為とは分かっていても、アガンベンの政治哲学をもう一度検証することをやってみようかな。

 具体的には『ホモ・サケル』『例外状態』(『アウシュビッツ』は余力がない)を読解し、そこから彼の「共同体」論(それは政治神学的なものであるはずである)との繋がりをもう一度明確に浮かび上がらせること。これかな。


・ネグリ、ネグリ+ハートの通読

 今回の「法を超えるために ホッブズ、カント、スピノザの政治哲学」をやっていて、次に勉強したいのが、現代のスピノザ主義者のネグリや、ネグリ+ハートの世界政治理論だなぁと改めて思えた。

 あと、日本の市田良彦さんの著作も読んでみたい。うまくいけば、ランシエールやバリバールなどのアルチュセールの後継者の思想にもつながることと思われる!


 以上です。
光枝初郎(ういろう)
misty8823@yahoo.co.jp

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