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本の感想、雑感、小論考など。 小説、簡単なエッセイはこちらで→「テイタム・オニール」http://ameblo.jp/madofrapunzel2601/
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 学問とは、結局、整理することです。
いや、考えることとは、結局、整理することなのです。
私たちは、まず食べたり、安全を確保したり、そして人と話をしたりする。
そういう中で、大切なことと、大切じゃなかったこと、もうあんまり繰り返したりしたくないこと、一言で言えば不幸な事柄を経験する。

 言ってしまえば、人はずっと不幸を避けられるわけではないけれども、反対に、ずっと幸福から遠いところにいるわけではない。

 そうやって日常をなんとなく繰り返しているうちに、急に整理をしたりする。それまでのこと、それまで会った人とのこと、イヤなこと、苦しかったこと。

 あぁ、自分はあぁいうのが嫌なんだな、こういう時はこうすればよかったんだな、と自分なりの整理をする。
 そして、また日々に戻っていくのです。


 おそらく、整理なしでは、人はやっていけないでしょう。それは私たちが機械ではないから。
もちろん、整理ばっかりすると、日常がおろそかになるでしょう。


だからふとしたときに、整理をして、思いもがけない発見をしたりして、そして次につなげていく。


 僕は、これまで随分、自分に直接言われたことも含め、講義で聞いたのも含め、”具体的な思考を忘れるな”ということを聞かされ続けてきました。
 確かに、僕は抽象的な議論が好みだし、そういう思考は得意です。
 しかし、それだけで、抽象的な議論は地に足がついていないから避けられるべきだ、具体的な思考のみが尊重されるべきなのだととは微塵も思っていません。

 ならば、逆に、具体的とはどういうことよ?と聞いてみたくもなります。

 当たり前ですが、やっぱり抽象的な思考と、具体的な思考と、両方が必要なのです。どちらか一方という考えは一番合ってはならない。
 そして、抽象的な思考はしばしば、かえってあとで日常の具体的な場面を整理してくれることに大きくつながったりします。

 抽象的な思考は、それをすることで、具体的な場面に力立つことだってたくさんある。
逆に、具体的という言葉に囚われすぎると、ひとつも地図や一貫を軸に置かない、その場だけの解決になってしまって、応用がきかなくなるでしょう。

 理論は大事。抽象的な思考も大事。

そんなことを思いました。

ういろう
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どうもーちょっとお久しぶりのういろうです!

 執筆活動、はかどってません!それよりも、たくさん読書が出来ています。完全に読書充ですw

なこと思っていたら、哲学研究は、なおさらしっかり方向性・計画をそれなりにたてたほうがいいなぁと思いました。
 まだ、哲学の研究をする身としては、ド素人ですからね。 ネタとしてしか話せません。
なにか、新しい理論を提出するためにも、こういう感じではありますが、ちょっと研究計画なるものを自分なりに立ててみようと思いました!


・まず、ずっと読んでいるドゥルーズ。 去年は、日本人研究者によるドゥルーズ解釈本がばんばんと出ました。まだ國分さんは読んでいませんが、千葉さんの著作と山森さんの著作だけでも、じゅうぶんにたくさんの手がかりにもなります。

 そこで僕が何がやれるか考えると、やはり僕は『差異と反復』を中心にやりたい。この書物は圧倒的だ。
 まだそこまで、世界的にも『差異と反復』のポテンシャリティが十分に組み尽くされていないのではないか、と思う。
 それから、ドゥルーズが立ち上げたと言われる、<差異の哲学>。 差異というのは現代社会が進行するにつれますます大切になっていくが、これをもう一度取り上げる必要があると思った。

だから、ドゥルーズ研究をやるとしたら、オーソドックスでやりつくされた感のある『差異と反復』から、現代社会にまで通じる(それは当然ドゥルーズの死後もそうである)<差異の哲学>を検証すること。
 もろもろの差異に対して哲学はどこまでやれるのか。
そんなことを、大まかには研究してみたいですね。

 具体的には、まずは『差異と反復』の精密読解(これが中心)、解釈本の該当箇所の抽出、あと江川隆男さんの『存在と差異』、これは読まなければ。 これを読んだ上で、千葉さんと江川さんとの対談を改めて読み返してみるのも有意義になろう。

しかし、実はドゥルーズ論をやるのは、まだけっこう先の目標。すぐにできるものではない。差異の哲学を抽出するなど、博士論文レベルだからだ。


・今とりあえず目下にあるのは、主権論。 方向がちょっとグラついているが、とりあえず、アガンベン、ホッブズ、カント(の読解)を通して、スピノザの方向へ、とする政治哲学の文章(論文)が一ついいのかも。
 そのうえで、主権の別形態へ、ということで、スピノザ的なマルチチュード概念に再構築した主権を接木したものを、さらに昨今の地方自治論やポスコロ批判言説などと接合してみる。こっちのほうは、まだ全然進めていない。鵜飼哲さんの仕事はとても大きな足がかりになりそうだ。

二つ合わせた上での、ものなら、ある程度大きなものになりうる。

とりあえず最初の、政治哲学系論文は、3ヶ月以内には、完成を目標にするのがいいのではないか。
スピノザを読まなければならないかも。スピノザを愛するネグリの著作も。水嶋さんなども!


・そしてこれは時間のあればやる、ラカン理解。
今後のポイントは、フロイトとラカン。
ジジェク理解。

 基本的には、ブルース・フィンクの著作や、もろもろを読みすすめて、ラカン理解を深める。



・あとは、もう、自由な読書! ナンシーや、スティグレールをどんどん読んでいきたい。山森さんのガタリ論も読み始めた。




こんな感じで、やっていきます。
とりあえず「主権論プロジェクト」をメインにやって、疲れたら自由な読書とかラカンとか、はたまたドゥルーズとかやればいいかなって!

年間計画も立てようかな!笑

ういろう

急ぎ目で書いたエッセイですが、読んでいただけると幸いです(*゚▽゚*) 要は上下関係だけじゃないっしょってことなんですけどね。

***

ウエとシタ
 私が仕事をしている時に一番吐き気を催すのが、<ウエとシタ>の雰囲気が如実に現れる時である。

日本では今もなお染み付いている、この構造。

権力を持つ、「ゆえに」偉い(ウエ)のであり、権力を持たない、「ゆえに」シタなのである。

この「ゆえに」が、真面目な文法上の論理をなさないことは理解にたやすい。

例えば、「課長さんも大変ですよね…」 といったようなキャッチフレーズがあったとする。
日本では、タテマエとウラの顔を峻別する(そしてそれが望ましい、美、気の利いたやり方だという強迫意識さえあるようだ)から、日頃は課長への不満愚痴ばっかだとしても、どこかで”課長をたてないといけない”、そんな意識が別にあって、課長に「さん」付けをする、それから「大変ですよね…」と二重の気を使わないといけないのだ。

 思うに、権力者側からの、強い者側からの、「わたしだって辛いのよ」「俺だってきついんだ」という文句は、絶対に発してはならないのだ。それは、アウトである。何かの秩序空間を甚だしく乱す。

 先ほどの例を続ければ、課長というのは、部下の心配りを率先して配慮しなければいけない立場なのだから、「課長さんも大変ですよね…」と部下に言われて、「うんそうなんだ・・・」と応ずるのはまさか、「いや君、ごめん、要らぬ心配をかけたね」と丁重に謝らなければならないのだ! 自分のことを部下に心配させてしまったのだから。課長は部下に心配をさせない、それも立派な課長自身の仕事なのである。

さて、極論になるかもしれないが、その極論としての<権力者>のもうひとつの姿を、レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』(中央文庫クラシックス)の記述から借りて浮かび上がらせてみる。

 実際にレヴィ=ストロースが説明記述するのは、ブラジルのとある村の、首長と呼ばれる人物についてである。
 この首長、村でおこるあらゆる諍いや、トラブル、いわば裁判上の問題の解決役をこなしたりするのだが、首長は、一般的に首長と呼ばれるもののイメージと違って、権力ぶったところがみじんもないのである。というより、首長は、みなから嫌われ、それだから首長も自分もこんな役職につきたくなかったのだ!というほど、魅力の少なそうな役職なのである。


 どういうことか?

 結論を急ぐようだが、一般に、<組織>として動くー働く人間関係には、一般にイメージされる上下関係のカテゴリーには収まらないような動きがいっぱいあるはずなのである。レヴィ=ストロースの上の例では、裁判上の役割である。村人は提訴人であり、主張は裁判官の役目を果たす。確かにそこには重大な決め事の最終的決定を下す(判決)という点において、主張に権力が集中するのだが、ブラジル民族はそこで首長を崇めたりはしないのである。逆にいみきらう。

私は日本において具体的には、部下が課長と対等に交渉をする、そのような図を考えている。
部下ー上司関係はそもそもが上下関係だから、部下は上司を絶対に敬わないといけないし、上司は実際に偉い、というこの手馴れた説明を、いちど破棄してみたい。

 そうではなく、上下関係以外の、たとえば<機能>の上で図られる部下と上司だから、その意志存在としては、はなはだ平等であってしかるべき!!なのである。

 日本も資本主義がここまで花開き、公的政治は存在感をなくし反対に市民社会が日常の風景となりつつある。 そんな市民社会でまだ染み付いているウエとシタ、それを脱構築してみようではないか。

(了)
たしょう内省的なエッセイとなってるんですが、お読みいただけたら幸いです。

@街と活動―福岡

 そろそろ、福岡という街で過ごしてきたことを、強引にでもまとめに入る―概観するタイミングに入っている。近代文学の起源を発見したと同時に、それの終わり、つまり必然性の消去も同時に柄谷行人氏は見出してしまった。もう6年も7年も住んだこの街についても、私は同じような作業をしなければならないと思っている。

 住んでいる街が、環境として、つまりアーキティチャ的思考枠組みの下で、これだけ人々の意識に定着しているのは喜ばしいことである。住んでいる街が自己の活動を制限したり、もしくは既定したりするということ―。
 例えば、一言で日本(の地)といっても、それには東京のような都会と、それに従属するあるいは機能を欠いていて華のない地方、といった二項対立もあるし、山林の多い地域と少ない地域、気温の寒い街と暖かい街、といったように、様々な区切りができるわけだ。日本も、またそこに住んでいる人々の活動も、まったく平板ではないのである。
 

 僕は2007年の春に、大学入学のため来福してきた。大学という自由の最高度に効いた空間に初めて触れたこともあわせて福岡のイメージを語るなら、まず何と言っても華やかということだ。福岡は華やかな街だ。
 お金の使い道に困ることがない。ショッピング、本・映画などの娯楽、飲み屋、食べ物、そういった文化的地盤がとんでもなく奥ゆかしい所である。
 あまりにも、大学最初の頃からこの華やかで楽しい街の雰囲気に飲み込まれたせいで、僕自身もそういった背伸びしたモードを付け足してここまでやってきたのかもしれない。

 だからこそ、この文化の幸福な状況を創りだす要因は何か、今一歩冷静に引いて考えてみるのもいいかもしれない。そうすることが必要なのではないか。せっかくだから、福岡で経験した・見てきたものを踏まえて、文化のとる諸様式について整理してみたい。

始原状態; ある一定の形式の文化(音楽、お笑い、アイドル、B級グルメ…)のはじめ。デニュー、スタート地点。アンダーグラウンドな場所がほとんど。

過程 ; 始原状態あkら徐々にメタモルフォーゼしていく。例えばロックバンドなら、作品に発展がみられたり、ハコの規模が大きくなっていったりする。

(メジャーデビュー)

全国≒芸能界≒テレビの世界;
  しかしメディアも多方向多チャンネルになった現代、何が「一番」「登りつめた状態」なのかはよく分からなくなってきた

 
ローカル軸足; 全国にじゅうぶんいけることができる資質を持つにもかかわらず、拠点を地元から変えない。
 ex. 百蚊(バンド)、LinQ(アイドル)←?

大衆的認知;お茶の間の存在となった様式。 ex. AKB


 中でも、やはり最初の資源状態と過程という、いったい何になるかどうなるかも分からない地点を見ることができる、というのは相当楽しい。

 ざっとまとめてみると、安易な地下デビュー→上昇→全国デビュー→上昇 といった単線型の説明だけでは現象を理解できないということだ。
 メジャー/インディーズといった区分の他にも、場所性や志向性などさまざまな区分が加わって、文化の流通経路はとても複雑化しているのが分かるだろう。

 そのうえで、素晴らしい文化はどのようにして発生=創造されるのかを考えるということ。理想の芸術、生のモード。

 私はいずれ遅くなく地元に戻り、これからの大いなる宿題をときにかかるあろう。そのような意味で、福岡とはじつに長きにわたって見てきた、偉大なるフィールドワークの実践の地でもあった。私にとってはかえることのできない一生ものである。

 福岡で関わってきた全ての人に、ありがとう。
次に会うときは、出版されたことが決まった僕の原稿を手土産にしたいものです。

(了)
教育と労働

 労働に関する問題を批判的に考えようとする際、「教育」というテーマをそこに挿入するのはとても面白いように思われる。

 日本の教育制度では、(幼稚園)ー小学校ー中学校ー(高校)ー(大学その他)

このかっこで囲まれていない、小学校並びに中学校における9年間の義務教育制度がある。日本人はみな、子供の時は最低9年間は教育制度の下におかれなければならないということだ。

 また、同時に、未成年の原則労働禁止、禁止まではいかずとも成人と比した場合の制限がある。

教育と労働は、いちおう別問題である。この別領域の二つを同時に「教育と労働」として扱った法令を私は今この場では思いつかないが、
 試しにこの論考では”労働に抗する教育”という概念を打ち立てて、もって労働への批判的考察を導いてみたい。

労働に抗するとはどういうことか。教育はもちろん、子供が大人になるための知識、経験その他諸々のハウトゥを得るものとして想定されている。
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