急ぎ目で書いたエッセイですが、読んでいただけると幸いです(*゚▽゚*) 要は上下関係だけじゃないっしょってことなんですけどね。
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ウエとシタ
私が仕事をしている時に一番吐き気を催すのが、<ウエとシタ>の雰囲気が如実に現れる時である。
日本では今もなお染み付いている、この構造。
権力を持つ、「ゆえに」偉い(ウエ)のであり、権力を持たない、「ゆえに」シタなのである。
この「ゆえに」が、真面目な文法上の論理をなさないことは理解にたやすい。
例えば、「課長さんも大変ですよね…」 といったようなキャッチフレーズがあったとする。
日本では、タテマエとウラの顔を峻別する(そしてそれが望ましい、美、気の利いたやり方だという強迫意識さえあるようだ)から、日頃は課長への不満愚痴ばっかだとしても、どこかで”課長をたてないといけない”、そんな意識が別にあって、課長に「さん」付けをする、それから「大変ですよね…」と二重の気を使わないといけないのだ。
思うに、権力者側からの、強い者側からの、「わたしだって辛いのよ」「俺だってきついんだ」という文句は、絶対に発してはならないのだ。それは、アウトである。何かの秩序空間を甚だしく乱す。
先ほどの例を続ければ、課長というのは、部下の心配りを率先して配慮しなければいけない立場なのだから、「課長さんも大変ですよね…」と部下に言われて、「うんそうなんだ・・・」と応ずるのはまさか、「いや君、ごめん、要らぬ心配をかけたね」と丁重に謝らなければならないのだ! 自分のことを部下に心配させてしまったのだから。課長は部下に心配をさせない、それも立派な課長自身の仕事なのである。
さて、極論になるかもしれないが、その極論としての<権力者>のもうひとつの姿を、レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』(中央文庫クラシックス)の記述から借りて浮かび上がらせてみる。
実際にレヴィ=ストロースが説明記述するのは、ブラジルのとある村の、首長と呼ばれる人物についてである。
この首長、村でおこるあらゆる諍いや、トラブル、いわば裁判上の問題の解決役をこなしたりするのだが、首長は、一般的に首長と呼ばれるもののイメージと違って、権力ぶったところがみじんもないのである。というより、首長は、みなから嫌われ、それだから首長も自分もこんな役職につきたくなかったのだ!というほど、魅力の少なそうな役職なのである。
どういうことか?
結論を急ぐようだが、一般に、<組織>として動くー働く人間関係には、一般にイメージされる上下関係のカテゴリーには収まらないような動きがいっぱいあるはずなのである。レヴィ=ストロースの上の例では、裁判上の役割である。村人は提訴人であり、主張は裁判官の役目を果たす。確かにそこには重大な決め事の最終的決定を下す(判決)という点において、主張に権力が集中するのだが、ブラジル民族はそこで首長を崇めたりはしないのである。逆にいみきらう。
私は日本において具体的には、部下が課長と対等に交渉をする、そのような図を考えている。
部下ー上司関係はそもそもが上下関係だから、部下は上司を絶対に敬わないといけないし、上司は実際に偉い、というこの手馴れた説明を、いちど破棄してみたい。
そうではなく、上下関係以外の、たとえば<機能>の上で図られる部下と上司だから、その意志存在としては、はなはだ平等であってしかるべき!!なのである。
日本も資本主義がここまで花開き、公的政治は存在感をなくし反対に市民社会が日常の風景となりつつある。 そんな市民社会でまだ染み付いているウエとシタ、それを脱構築してみようではないか。
(了)
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