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自転車は危険か? 危険の違いと超制度としてのアーキテクチャ
*はじめに
昨日、福岡市内において、自転車安全週間という制度に基づき、危険運転自転車に対していくつかの交差ポイントにおいて警告を与えるということがおこなわれた。
何を隠そう、私も警告をうけた市民のひとりである。私は危険運転ではなく、夜道に無灯火だったわけでもなく、ただ音楽を聴きながら自転車を走行していた。
音楽を聴きながらの自転車走行も、警告対象になるらしい。
住所・氏名・生年月日・職業をゆっくり聞かれ、私は急いでいたのに、尋問をする警官はたいへん苛立たしかった。
以上が、この記事、「自転車は危険か?」を書こうと思った動機ではあるが、そこにはもちろん自転車の危険を語る際の注意のようなものがある。
*はじめに
昨日、福岡市内において、自転車安全週間という制度に基づき、危険運転自転車に対していくつかの交差ポイントにおいて警告を与えるということがおこなわれた。
何を隠そう、私も警告をうけた市民のひとりである。私は危険運転ではなく、夜道に無灯火だったわけでもなく、ただ音楽を聴きながら自転車を走行していた。
音楽を聴きながらの自転車走行も、警告対象になるらしい。
住所・氏名・生年月日・職業をゆっくり聞かれ、私は急いでいたのに、尋問をする警官はたいへん苛立たしかった。
以上が、この記事、「自転車は危険か?」を書こうと思った動機ではあるが、そこにはもちろん自転車の危険を語る際の注意のようなものがある。
殊に福岡市においては、自転車の数がかなり多く、例えば大量に放置された自転車も問題となっている。
自転車の危険運転―速すぎるスピード、歩行者との接触―を注意、監視する当局の方向性は、主にここ5年の間、徐々にその向きを強くしているように思われる。
*自転車/自動車の危険性
最初の出発点から言えば、自転車の危険性を、自動車の危険性などと同一視してはならない。
自動車 > 歩行者
この図式が一般的に妥当するにしても、 自動車 > 自転車 > 歩行者
のような図式は安易に使用されてはならないのである。何故か?
自転車は、確かに危険である。それは、蛇のような危険性である―。自転車は何よりも小回りがきく。だから、そもそも縦横無尽に道路を走る属性を持っている。砂道も走りこなせるし、狭い通りの道も難なく走る。
それから自転車の速度は自在である―。ゆっくり走ろうと思えばどこまでもゆっくり走れるし、かと思えば急にアクセルを踏むことができる―。
法律的には、自転車も<車>である。ここではそろそろ自動車を語ったほうが良いのだろうか。
自動車にはあらかじめ様々な制限があたえられている。そもそもの免許制度、それから速度制限、違反に対する諸々の罰則。自転車が自由ならば自動車は制限サルものである。
そもそも、モータリゼーション(車社会)が成り立つことにおいて、(自動車)事故が起きないことを願うのは怠惰の極みである。
<車―社会>は、一定の確率で、事故を起こす。ここには確率論的なものが社会(設計)の中に埋め込まれていると考えるべきである。
自動車は、その本質において危険である(速度100キロも出るものがあれだけの人が同じ道路を乗り回している、自動車の運転はあくまで操作であって自己身体と同一化しない)。
ならば、自動車の制限は、制度が用意したものなのだ。
自動車は、本質においてアブナい。だから、制度=社会が、その 防衛策を講じる。
*境界線―ソトとウチ
そのように整理してみるならば、ここでは、自転車も、自動車の危険性の原理をそのまま同じく適用する方向で、はじめにのところで述べたような、危険運転への罰則などが講じられていることが理解することができる。
しかしそれはお門違いである。先程も言ったとおり、制限サルものとしての自動車は、あくまで社会が設計した制度の内で、その走行をおこなうことになる。
反対に、ある意味で自転車は、そのような社会が構築する制度の外へと抜け出し、いや制度自体を攪乱するような働きを持って、はしるのだ。 これが、自転車の何よりの特徴である。
自転車でごった返している現代中国社会の道路…。 制度化をおさえると、あっという間に、人はそうした反制度的な流れに身を任せる。
まとめよう。自転車は自由である。その意味において、自転車は危険である。歩行者をはねてしまうかもしれないし、信号無視をするかもしれない。
しかしこのような自転車の走行を、一律的に止めること―制度はそういうモノに長けている―これがまた、制度の外に出たものをひたすら制度の境界線(外/内)が内へと取り込む当局の働きによって呑み込まれてしまうかの如くである。
そのとき、自転車がもう一方で持つような、自由な、流動的な、制度を超えるモノを失わないためにするにはどうしたらいいのだろうか?
本論は交通状況における自転車・自動車・歩行者の3社関係のよりよい見取り図の素描を考えるものであるから、最後に具体案を提示する。
* 超制度、アーキテクチャ
そもそもである。道路は、歩行者と自動車の二アクターしか予想していない! あるいは、自転車もしくは歩行者は単に無視されているのである。
自動車がビュンビュンすぎる横で、幾つもの自転車と何人もの歩行者が狭い側道をわけへだてあっておずおずと、時にはイライラと通っているのを見るが良い。
何より、現状の制度は、自動車優位であるし、それしか考えられていない。
歩行者と自転車との接触、自動車と自転車若しくは歩行者との接触などの事故を本当にふせぎたくば、道路の幅をどうにかすべきである。
一度作った道路の全体幅を変えるのが難しいならば、
例えば
・自動車の、大型・中型/乗用車 の最低2つは、違う道路にする
・そしてあまりに幅の大きいトラックなどは、それが安全に走行できるルートを作ってやる
・歩行者専用通路の確保
・自転車専用通路の確保
・時間帯によって、走れるアクターが違う道路
など、いくつかのアイデアが導かれるだろう。
これは、歩行者・自転車・自動車それぞれが織り成す自動車社会=環境に、もう一度フィードバックし、自動車優位でしかない今の現状を変えていこうとするものである。
そのとき、力を持たない、あるいは端的に誤解を受けている歩行者や自転車は、狭い意味での制度の枠外にいるが、それらをも、制度の枠外にいるというその意味=機能において、アーキテクチャとして成り立たせるような図式が必要である。
この時、制度外の要素もそれとして機能する、超制度(スーパーインスティチューション)としてのアーキテクチャ的思考が力を発揮するだろう。
最後は少し長くなったが、交通を考える上では、以上のような洞察も視野に含まれたい。
(了)
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