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卑しき人間がいる。いつの時代でも彼らは、世間に多くの空間を占め、のみならず我々が人間の代表であると嘘の表象=representeをしてきた。彼らは主に資本主義体制や堕落した政治システムの再生産を支えて「しまう」立場を自ら積極的に引き受けている。そこに彼らの帰責性がある。

 他方で、個人主義時代の責任のたらい回しの理路は煩雑を極めている。責任に対する考え方は、責任が如何にあるのかという構成的=法学的な理路から、じょじょに責任の所在の配分をどうするかというエコノミー的な理路へとその重心を移しつつある。卑しい人間がそもそもの事の発端であるかもしれないのに? 問題はあまりにも山積みになり、それはすでに瓦解しているというのに、卑しき人間はそれを自己のものとして引き受けない。貧しい精神はどこまでも貧しい。

 ここでは闘うこの私は誰か、及びこの私の立ち位置はどこかという問いは後々追補的に語られるということにしよう―。私たちは認識を改めなければならない。


資本主義=現実のあらわれかた


 卑しき人間の視線にとって、歴史は幅を持たない―宮台真司の言う「忘却」があまりにも自明に働いてしまっているからだ。よって彼らには、資本主義は(ますます)現実での出来事と密接不可分・一体となって映る。それが資本主義=現実という言葉の指す意味である。
 であるから、既にこの両者の結びつき(イコール)だけでも、その解明の余地がある。しかしそれより先に、この資本主義=現実が、彼らの目にどう映っているかという「表象」の問題を明らかにしなければならない。

 「食っていくためには稼がないといけない」

おそらくこれが卑しき人間にとっての資本主義=現実を端的に表す言葉である。このセンテンスには少なくとも3つの異なる概念が含まれる。生存、労働、そして(媒介としての)貨幣である。

 私たちはヘーゲルを引くまでもなく、生存に不可欠な本質的な労働を想像上知っている(体を動かし献身の精神を少なからず体験することが日々の健康になることはあまりキャンセルの仕様がない)。問題は、生存と労働を媒介する貨幣である。

 貨幣を機材として動く資本主義体制は、機械として考えると分かりやすい。機械=器官―機関organ-izationとしてのそれは、人間の労働を極めて数量的に価値化する。これこれの働きに対して君の取り分はこれ、というわけだ。何よりそこでは人間の労働は富を生産するもの「でなければならない」。

 富を生産セヨ。

 
 なぜ富を生産しなければならないのか? 労働はそれ自体として肯定されることを、この機械体制はよしとしない。人間の労働は、数量化された価値として、機械のエネルゲイアに服さなければならないのである。(機械を作る人間の機械への服従…。)

 マス機械(の流れ) / 虚無な人間(の労働)

 端的に、労働は従属性を持つのである。それでは何に従属しているのだろうか?機械に、そして機械の構成要素たる貨幣に。貨幣=価値をもっと掘り下げなければならない。

(卑しき人間(2) へ続く)
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