![]() |
・ドゥルーズ的(哲学的)分析
古井由吉「杳子」新潮文庫pp163-4 より
「いいえ、あたしはあの人とは違うわ。あの人は健康なのよ。あの人の一日はそんな繰り返しばかりで見事に成り立っているんだわ。廊下の歩きかた、お化粧のしかた、掃除のしかた、御飯の食べかた……、毎日毎日、死ぬまで一生……、恥ずかしげもなく、しかつめらしく守って……。それが健康というものなのよ。それが厭で、あたしはここに閉じこもっているのよ。あなた、わかる。わからないんでしょう。そんな顔して……」
(中略)
「癖ってのは誰にでもあるものだよ。それにそういう癖の反復は、生活のほんの一部じゃないか。どんなに反復の中に閉じ込められているように見えても、外の世界がたえず違ったやり方で交渉を求めてくるから、いずれ臨機応変に反復を破っているものさ。お姉さんだってそうだろう。そうでなくては、一家の切りまわしなんかできないもの」
ドゥルーズの『差異と反復』によると、世界は「差異」と「反復」の原理から成り立っている。例えば、時計は私たちの生活の基盤だが、その「チックタック、チックタック」という音の中で、「チック」を聞くことによって次の「タック」を推測し、それが繰り返されることで、「ハビトゥス」が形成され、人は生きていくことができる。
「チックタック」のようなハビトゥス(慣習)は至る所にある。
しかし、ドゥルーズは「差異」をヨリ重視している所がある。反復は、同じものの反復ではなく、真の反復とは「違ったもの(差異)の反復」だと言う。
例えば、「毎朝コーヒーを7時に飲む」(仮にこの事象を事象Aとよぼう) というものの繰り返しの生活の中でも、
「今日は砂糖少なめのコーヒー」(A’) 、「今日はちょっと冷めたコーヒー」(A”)、といった風に、「違ったやり方で」事象Aが繰り返されているのだ。
それが真の反復である。
古井由吉の上記会話文の中では、杳子は、同じものからなる反復(同一なものの反復)をかたくなに嫌悪していることが伺える。杳子は、たとえば三文字からなる喫茶店の店の名前を、この前とは名前の響きが違うといって同じ店に感じられないことがある。そう、<病気>の(この言葉には注意が必要だ)杳子は、「完璧なる差異ばかりの世界」の中で生きているのだ。
差異と反復は対立しているかに見える。
しかし、ドゥルーズをここで思い起こそう。彼の本のタイトルは、差異『と』反復、なのである。彼は確かにこの本によって「差異哲学」といったものを完璧に作り上げたと評価されているが、
ドゥルーズはむしろこの『と』、andというバランスのほうを考えていたのではないか。
「杳子」Sの発言は、真の反復の存在に気付いている。真の反復は、「微かな差異からなる反復=世界」、と差異と反復をうまく和解させているのだ。
差異と反復をその場の発言とはいえうまく和解させたSと、反復を拒絶し極限の差異の世界を標榜する杳子と、どちらが「善い」のだろうか。
misty
PR
COMMENT