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 川端康成の小説には、芸者(芸子、舞妓、旅芸人など)がよく出てくる。代表作に限っても「雪国」や「伊豆の踊子」など。殊に短篇作品の「伊豆の踊子」におけるそれは特別だ。そこには川端康成の芸者たちへの深い愛情といったものが感じられる。

 芸者は、当時の日本にあって、「そうなく生活を余儀なくされている」といった位置づけをなしている。貧しい金銭的状況の設定が多く、だいたいはその生活圏内から離れないといったパターンが川端作品の中では多い。むしろ、川端の設定した男主人公の方が、場所をうつろい、どこか現実逃避的で、彼らの元を「訪ねる」「訪問する」といった趣きが強くなっている。

 川端の設定する主人公は明らかに「芸者」の人たちの世界に惹かれているのだが、「なぜ自分は此処にいるのだろう」といった内省を川端が記述することは稀だ。むしろ、主人公と芸者たちの会話や心のやり取りを静かに描くことで、かえって私たち読者にその淡くて儚げな関係性を強調する。

 主人公たちは、決して芸者たちを身分の低い者→貶められる者というロジック、感覚で見ない。そこには、おそろしいほど深遠な態度がある。一言では表せないのだ。ただ寄り添うといった態度でもない。筆者には、川端の描く主人公たちは、芸者たちの世界に「何故か、いつも引き寄せられている」とでもいった受動性、事後性のもとに動いている/動かされている心情をかんじる。

 「伊豆の踊子」では14,5歳くらいの踊子に、「雪国」では駒子に恋心、むしろ多大で不思議なほどの淡い好意を寄せている(この恋心もまた一考を要するほど不思議で深遠なものであるのだが)のだが、彼らに愛の告白をするでもない。「一緒に生きよう」と娶るわけでもない。むしろ、主人公たちは一人二人の女性を娶るほどの経済的状況にはあるはずなのである(それがなければ「雪国」のような放蕩な生活はまさか送れまい)。そして、その愛の告白や「決意」に満ちた言葉を、彼女/彼らも、待っているわけでもないし、しかし待っていないわけでもないのである。常に彼らの関係は不安定なものとなる。しかもその不安定さは、否定的・ネガティヴなものではなく、常に物語の円軸を揺り動かし、周りの世界に動も精もあたえるような、根本的で人間的な、そういった意味での不安定な関係なのである。

 「偶々、いきつくところによって彼らと一緒に居る――」。このような態度、もしくは心情が、川端の描く主人公たちには在る様な気がする。それは、川端自身が経験したことが決定的に影響しているのかもしれないし(彼自身の「伊豆」の度々の訪問など)、あまり影響していないのかもしれない。しかし、そのことに対して主人公たちは「即断」をしない。矢張り「寄り添う」といったことばが一番適切なのだろうか。芸者たちに、芸者たちの必死の毎日に、告白を迫るでもなく、去るわけでもなく、ほんのひと時のささやかな祝福を共にするために、寄り添う――そのような愛情に近い、不思議な感覚が川端作品には横たわっている。それを言語化するのは非常に難しいのだが。

 こういった川端作品における芸者たちの世界の描き方、描かれ方は独特であり、それは川端文学の必要不可欠で根本的な要素をなしていると筆者には思われるのである。

misty 
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 こんばんは。mistyです。今は2015年の12月29日。帰省ラッシュというか、年末に突入しました。
 今年は個人的に文学方面でわりと充実したなと思っていて、来年ももっと頑張っていきたいと思えるようになりました。
 小説や文学は一人だけでは広がることは不可能で、目の前の本を書いた作家たちのみならず、友人、先生、自分の書いた小説を読んでくれる家族などを通して、どんどん人の輪が広がるようなものでもあるので、そういった小説や文学のチカラを大切にかんがえていきたいなぁと思いました。
 エッセイを書いて、今年のブログの締めとしたいと思いました。
みなさん、よいお年を。


***

文学の流通と課題(私的エッセイ)


 昨今になってますます、小説と呼ばれるものの本の出版が、数も夥しくなってきた。いろんな本がありすぎて、わけがわからないくらいだ。過剰な出版で困るのは、次から次へと新しい本が出されるのはいいのだが、大して買われたり読まれたりもせず、闇へ消えたり、図書館の書庫いきになってしまうという現状だ。人々の趣味・嗜好が細分化・多様化し「たように考えられ」、それに合わせて様々な本を書ける書き手が生まれて、出版もそれに合わせて、ということなのだろうか。それは一見あっているようにも思われるが……

 例えば、小説は多いのだが、エッセイとか、難しい批評本といったものは、比べて枠が限られている。小説は読みやすいものも多いし、何より古くからのリターチャー的メディアなので、小説産業自体が盛んなことは望ましくもあるのだが、僕は小説やエッセイや批評を書く身(今はアマチュアだけれども)なので、小説外でもエッセイや批評本がもっともっと人々に興味をもたれて読まれてほしいな、と常日頃思っている。

 それで、批評本はあとに回すことにして、エッセイは有名なエッセイストが何人もいるし、実際エッセイはその性質上「読みやすく深い」ということから、多くの人に愛されているジャンルでもある。
 エッセイを書くことは難しい。エッセイの文章は小説の文章を書くときに要る注意力と何も変わらない。真剣にエッセイを書かなければ、いいエッセイは生まれない(これは私の定理だ)。

 しかし、ここからが重要なのだが、優れたエッセイストを育てる環境は、今の日本の状況では、厳しいものがあると私見では思っている。というのが、エッセイストを目指そうとして、例えば公募でエッセイを出そうとしても、エッセイ原稿を募集するほとんどの公募は、「母にちなんだテーマで」とかの、外在的な、条件付きのエッセイばかりを求めてくるからである。これは実体験だが、本格的なエッセイを書きたいと思っても、書いたところで、出す場所がとても少ないのだ。読んでくれ、このエッセイはみんなに読まれてほしい、といくら願ったところで、その場所がない。これは問題である。
 おそらく、エッセイを、大半は有名人やタレントが書くものだということになっているからであろう。在野のエッセイスト、極端な例だがエッセイを書くだけで食っていこうとする人はまずいない。小説家がエッセイを書いたり、著名な人がエッセイを書いて人気を博することはあっても、エッセイそのものを極めようとする人は今の日本にはあまりに少なすぎる。

 小説はたくさんの枠がある。エッセイは限られている。そして何より一般の、芸能人でもないし特にタレントも持っていない、しかし文学的資質と努力を不断におこなっている書き手がいくらいたとしても、エッセイを発表する場がない(少なすぎる)。どうしたらいいのだろう。

 批評や哲学的論文については、最近群像社が名前を変えて「群像新人評論賞」というのを設けている。条件は70枚以内の作品提出で、批評の対象はなんでもよし。名前が変わる前は、文学評論が主だったのが、ナンデモアリになったことで、おそらく優れて面白い評論文ならば、対象がアイドル批評でもサブカル論でも音楽批評でも何でもよいのだろう(その可能性は無限にひらかれている)。これは大きな転換点だと思った。
 しかし、そのような新人賞を設けているのは、群像社くらいである。とりあえず、批評や哲学の文章で名を馳せたいと思ったら、今は群像に出すのが一番の近道ということになるのだろう。しかし、それでも群像一社である。

 批評は、大学研究をある程度積んで卒業をした人ならば、わりと書くことができる。それをもっと努力し、技術を高め、自己の知識と見解を広めれば、もっともっと多くの批評本がうまれることにちがいない。難解のイメージを持つ批評・評論の世界にも、息吹がふかれるかもしれない。

 小説は、十分すぎるほどにマーケットで流通している。願わくば、エッセイや、評論といった、人々の文学観・教養に欠かせないような大切な本、文章が、もっとこの日本に広まる、そしてそのような環境作りが整っていけたらいいなと、複雑な気持ちで思うばかりである。

misty
 アイドル哲学序説
・はじめに オタク的主体?
 アイドルの現場――専用劇場からドームコンサート、握手会といったイベントまで――ではいったい何が起こっているか。それを本稿は現象学的に読み解こうとするものである。その際、二つの主体が問題となってくる。一つはアイドルの主体(アイドル的主体)、もう一つはオタク・ファンの主体である。本稿での議論の半分をアイドル的主体にあてるものとして、ここでは簡単に後者のオタク的主体について触れておく。
 そもそも、オタク的主体という言葉が成り立つのか。すなわち、オタクに主体性はあり得るのか。彼らは極めて欲望に従って、各々の利害関心の及ぶところだけで動いているように思われる。好きなメンバー、好きなグループしか応援しないし、お金を落とさない。逆に、大好きなメンバーには握手会などで何回も回るという「ループ」現象が広くアイドル現場において見られることが、オタクの動物的欲望(※1)といったものを裏付けている。
 だいたい、近年のアイドルは、「恋愛禁止」が掲げられている(AKB48が象徴的であった)。この恋愛禁止制度とでもいうものは、アイドルのみならずファンたちに大きく影響する。アイドルの個々のメンバーとファンが「付き合ってはならない」という当たり前のことを殊更大きく「再表象」することで、ファン=オタクたちは精神分析用語でいうところの「去勢」をうけるかのように見える。ここに、オタクたちのアイドル現場での様態が分極化するのである。ひとつは、去勢されたことで、生々しい性の空間を離脱し「マイルド」な恋とでもいった状態を生きること。オタクとアイドルの関係は生々しい性関係を抜きにした、純粋――?――な愛の空間を構成する。しかしもう一つには、禁止されたことでかえって抑圧された欲動を回帰させ、倍以上に噴出せしめるといったオタクからの視線――アイドルからの視線も理論上はある――が発生するのである。オタクはここに二重の視線を絡ませることになる。オタクはアイドル(メンバー)を脱性的なものして見ながら、かつ倍加された性的欲望のまなざしでも見つめるのである。
 そもそも、現象としてのアイドル――それはアイドル、ファン、そして運営といったアクターから成り立つ――は極めて性的なことがらである。オタクが脱性的なものとしてしかアイドルを見ない、ということは以上の理論からしてもあり得ない。しかし、私たちは後に見るように、アイドルたちの主体化の進行を目の当たりにすることで、かえってオタクたちの(主体的)変化をも観察することになる。

[1] 「欲望」や「欲求」という言葉の使い方については、東浩紀の『動物化するポストモダン』最終章が参考になる。


misty

・ドゥルーズ的(哲学的)分析
古井由吉「杳子」新潮文庫pp163-4 より
「いいえ、あたしはあの人とは違うわ。あの人は健康なのよ。あの人の一日はそんな繰り返しばかりで見事に成り立っているんだわ。廊下の歩きかた、お化粧のしかた、掃除のしかた、御飯の食べかた……、毎日毎日、死ぬまで一生……、恥ずかしげもなく、しかつめらしく守って……。それが健康というものなのよ。それが厭で、あたしはここに閉じこもっているのよ。あなた、わかる。わからないんでしょう。そんな顔して……」
(中略)
「癖ってのは誰にでもあるものだよ。それにそういう癖の反復は、生活のほんの一部じゃないか。どんなに反復の中に閉じ込められているように見えても、外の世界がたえず違ったやり方で交渉を求めてくるから、いずれ臨機応変に反復を破っているものさ。お姉さんだってそうだろう。そうでなくては、一家の切りまわしなんかできないもの」
 
ドゥルーズの『差異と反復』によると、世界は「差異」と「反復」の原理から成り立っている。例えば、時計は私たちの生活の基盤だが、その「チックタック、チックタック」という音の中で、「チック」を聞くことによって次の「タック」を推測し、それが繰り返されることで、「ハビトゥス」が形成され、人は生きていくことができる。
「チックタック」のようなハビトゥス(慣習)は至る所にある。
 しかし、ドゥルーズは「差異」をヨリ重視している所がある。反復は、同じものの反復ではなく、真の反復とは「違ったもの(差異)の反復」だと言う。
例えば、「毎朝コーヒーを7時に飲む」(仮にこの事象を事象Aとよぼう) というものの繰り返しの生活の中でも、
 「今日は砂糖少なめのコーヒー」(A’) 、「今日はちょっと冷めたコーヒー」(A”)、といった風に、「違ったやり方で」事象Aが繰り返されているのだ。

それが真の反復である。
 古井由吉の上記会話文の中では、杳子は、同じものからなる反復(同一なものの反復)をかたくなに嫌悪していることが伺える。杳子は、たとえば三文字からなる喫茶店の店の名前を、この前とは名前の響きが違うといって同じ店に感じられないことがある。そう、<病気>の(この言葉には注意が必要だ)杳子は、「完璧なる差異ばかりの世界」の中で生きているのだ。
差異と反復は対立しているかに見える。
 しかし、ドゥルーズをここで思い起こそう。彼の本のタイトルは、差異『と』反復、なのである。彼は確かにこの本によって「差異哲学」といったものを完璧に作り上げたと評価されているが、
ドゥルーズはむしろこの『と』、andというバランスのほうを考えていたのではないか。
 「杳子」Sの発言は、真の反復の存在に気付いている。真の反復は、「微かな差異からなる反復=世界」、と差異と反復をうまく和解させているのだ。
差異と反復をその場の発言とはいえうまく和解させたSと、反復を拒絶し極限の差異の世界を標榜する杳子と、どちらが「善い」のだろうか。
misty

前回の記事・・・ 第一回  ■はじめにーー文学、哲学、政治 ■彷徨

第二回 (タイトル未定) 哲学文章

■資本主義あるいは富と貧の政治学

 近代の成熟期は経済学の誕生と軌を一にしている。ここで(古典)経済学の成立条件を専門的に調査する余力は私にはない。しかし、経済、つまり貨幣と人々の具体的な生活との関数=関係という概念が前景化した要因は何であろうか。それはおそらく、国家(権力)による、人々の集まりとしての「人口」の発明である(M.フーコー講義録『安全・領土・人口』を参照されたい)。国家というものがおそるべき求心力をもちはじめたそのとき、人々=人口の生産力が問題として国家上層部の議論の俎上にのぼり、「国力」や「豊かさ」といったものが新たに語られるようになる。全体としての豊かさ。それはフーコー的な、統治―操作の対象としてである。経済という概念が、そもそも何かを抽象している(および捨象している!)のは間違いない。そして経済は、何よりも近代と国家の産物であることが重要なのである。

 資本主義によって貨幣を中心とした人々の生活が自律しはじめる(ように見える)。そのカギがマルクスの見出した「資本」と「剰余価値」である。マルクス主義者のそれらについての諸々の説明はまだ不十分であるが、とにかく「生産」というシステムによって国家と癒着した経済社会が具体的な人々を大きく支配するようになっていった。さてそれでは「生産」とはいったい何なのであろうか? 近代―資本―経済の中心であった「生産」とは?
 問題提起をしたところで、本論の筋に戻りたい。

■〈時〉と球

 人間は彷徨する。
毛糸状の線としてのリゾーム的生―線は、無重力的である。国家、資本、宗教による抑圧機能が近代にくらべて低いのである。その結果、個人の生―線は浮遊した形になるわけである。私たちは近代という歴史を解明することで、一つのモデル構築を試みている。その意味で本論は近代論を参照しつづける。

 さて、生―線の時間的構成をかんがえよう。それは、直線的な、一直線で進む時間概念(過去→現在→未来)からすると異質である。それはまるで過去=現在=未来といったような、ただ一つの〈時〉、永遠時間を無限に違ったやり方で反復=行為するという生き方としての時間なのである。どういうことか。
 一瞬にして永遠といったような時間が、この世界には確実に実在する(※1)。私はそれを、一直線の時間概念に対比して、ただ一つの〈時〉と呼ぶ。〈時〉とは永遠にして、瞬間でもあり、全ての時間なのである。そして、同じような瞬間瞬間を、私たちはいくつもの(終生八十年なら八十年分の)異なったやり方で、生きているのである。

 生―線の空間的構成については、ブログでは割愛するか、若しくはのちに補足として扱う。申し訳ない。

※1・・・ この永遠時間、一瞬時間の議論については、拙論文「実存主義の新たな形式」を参照されたい。リンク

misty


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