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本の感想、雑感、小論考など。 小説、簡単なエッセイはこちらで→「テイタム・オニール」http://ameblo.jp/madofrapunzel2601/
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(タイトル未定)

■はじめに――文学、哲学、政治

 ドゥルーズは非常に熱心な文学研究者でもある。書物それ自体が大好きであったのだろうと私は思う。プルースト、カフカ、そして晩年の『批評と臨床』に至るまで、彼の文学へのアプローチは揺るぎないものがあった。ドゥルーズ=ガタリの一連の仕事をよく読めば分かるのだが、彼らの哲学がいかに文学者、作家からの影響を受けていることか。
 ドゥルーズは、言うなれば哲学=文学の人であったのだと、敢えて言ってみたい。彼の哲学は文学と不可分であり、文学を思考することからドゥルーズの哲学はかなり作られていった。

 かたや、哲学と政治の結びつきといったものがある。ドゥルーズは政治といったものから遠ざかっていた人だった。もちろん彼の管理社会論は有名だが、それは『記号と事件』でほんの少し語られているに過ぎず、しかも彼の管理社会論はフーコーの議論との結びつきが非常に強いのである。
 哲学と政治といえば、例えばカントがある。ホッブズがあるし、スピノザがあるし、ヒュームがある。ところで、政治といったものの地平には、ずいぶん哲学の複雑な世界よりも単純な主張が飛び交うことがある。政治的スローガン。政治哲学の複雑な理論は、実際の政治上の主張では不要だというのだろうか。政治には、どうしても複雑さを嫌う傾向がある。それは緻密な作業を避けているということだろうか? そうではない。実際の政治では驚くほどの緻密な作業がある。しかしそれを支えているのは割とシンプルな理論であったりする。

 本論の目的の一つは、人生論のモデルを構築することである。それは最初に文学と哲学を重視する立場から検討される。しかし、ドゥルーズのように、文学と哲学に傾いて政治を避けるというわけにはいかない(彼を継承するなら、なおいっそう)。ドゥルーズは政治の問題を別に心底から避けていたわけではない。
 人生は、文学的でも政治的でもある。そして、物事を冷静に思考する力、すなわち哲学は、そのような文学と政治から等しい距離にあるべきだ、と私は考える。
 そのような観点から、本論を開始する。

■彷徨

 人は彷徨erranceする。人間は迷走する。
無方向、あらゆる方向に延びる生ー線は、毛糸状の線である。第三の生の線が、無規定的生ー線に他ならない。
 人が辿る道、すすむ人生は、けむくじゃらになったのだ。無方向。けたたましい躍動。どうしてそのようなことになったのだろうか。


 近代においては、生ー線は上下に伸縮していたと考えられる。それは主に国家と資本主義と宗教が織りなす三つの巨大権力の作用に他ならない。個人の生(-線)は国家イデオロギー、経済(市場経済)イデオロギー、宗教イデオロギーからいわば吊りあげられ、下方に配置されたまま(ここで国家対個人といったような垂直的構造が生まれる)、上下の関係に固定されたのである。そういった暴力的起源は、下方に向かう「弱者」(外国人、貧民、異端者etc)からは「声」が奪われ、名誉・報酬のシステムによって上方に向かう個人からは批判力が奪われることによって、覆い隠されてしまう。
 近代では国家、資本主義、宗教が完成されている。そのことの原因の探究は後に広範に論じていくつもりである。ここでは、資本主義という経済システムについてすこし見ておきたい。

misty

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私・暴力・他者(仮) (第一回)

■〈加害性を有する私〉

 出発点として、こうはじめよう。

私は世界を傷つける。私は世界に在る人たちや事物を傷つける。

 このとき、世界は傷つけられる対象といったものではない。文法問題に置き換えてはならない。あくまで、傷つける私が、世界を傷つけるのである。世界に居る人たちや事物を傷つけ、貶め、破壊するのである。〈加害性を有する私〉という概念の提出からはじめたいと思う。

 私は、どうしようもなく野蛮である。言いかえれば、どうしようもなく野蛮や狂気に彩られているときがある。そんなことはない、とか、そんなときの私は私ではない、とかいうのは辞めよう。私は時に狂気に満ちた存在である。しかもそのことが、近代的な言説たる私=主体の論理とパラドキシカルな形で併存できるのである。

 加害性とは、人間や事物を傷つける恐れのことである。私は時に、もしくは少なからず加害を行使する。現に拳をあげるのは確かに私の手なのである。現に怒りが噴出するのは私の口からなのである。現に人間関係を破綻させてしまったのは私の混乱した精神なのである。

 私という存在は、主体的に自律(自立)しながらもなお、加害を行使することがある。私は危険に満ちた存在である。

 このことを多くの現代人が否認している。人間とは時にどうしようもないほど野蛮なのである。それなのに、理性の信仰によって、現代科学は、現代の道徳は、私を一つの完璧に仕立て上げられた完成品だと見なす。私が暴力をふるうはずがない、こともあろうに私だけは狂っていない、この世には暴力から隔離された場処がある、等々。暴力から隔離された場処がある? 私はひび割れている、そして私は危害を現に加えうるのである。何処に。世界に。世界に存在する人たちや事物に向けてである。

 〈加害性を有する私〉の第二の派生点を述べよう。それは、加害には必ず「応答」が伴うということである。私が時に加害を行使する、その時私が見るのは人たちの涙や怖れる表情、或いは端的に困った顔……。そう、加害には効果(結果)が伴う。しかし、それを私は見るのである。

☆ 

〈加害性を有する私〉 → 主体でありながらかつ、加害を行使する = 私

           → 加害の効果(結果)を私は見る

(続・予定) misty

■病気の〈現象〉をもう一度主観の視点で構成する

 病気、それは現代においてあまりにも科学的=客観的(科学が〈客観〉objectiveの構成を与え保護さえすること……)なとらえ方をされている。そのような捉え方が支配的にすぎるのだ。
 例えば、ありとあらゆる病気の現象を、どこまでも生理的・身体的要因から起こるものとして解明しようとする(科学の)〈欲望〉。 このような事例は、かつて精神医学においても顕著であった。今はあらゆる医学領域におけるそれの全般化である。


 哲学者・現象学者は、もう一度病気を〈主観〉の側から構成しなおさなければならない。

だいたい、病気とは常に「当人」、つまり主体に「伴う」ものでもある。私の胃の不調、痛み、それは普段健康で何も痛みはしなかったご機嫌な私=主体を、唐突に脅かしてくる。

 私の胃は、はたしてこの時「客観的=客体的」なものなのだろうか? 
 よく、病気にかかると気分まで落ち込む、というが、そのときの病気と気分の悪さはまったくの別物なのだろうか?

 否、である。スピノザの心身並行論。それをとらなくとも、私たちは身体と精神の境界線が非常に曖昧などころか、ぎゃくに大きな精神を基軸点とした唯物論的構成をとることができるのだ。

 病気は、胃の不調は、主体の一部分のようにみえながら、確実に私の「気分」のようなものを害してくる。そのとき、私の胃は「私」という主体とたしかにまじりあっているし、「私」は胃という物的=客体的に捉えられがちなものに脅かされ続けるのだ。

 私は、病気とはひとまず、主体の傍にまとわりついて離れないもの、私を確かに構成しうるもの、つまり精神=私のようなものの一部であるとはっきり宣言する。

 みすてぃ

ニコ生(ニコニコ生放送)

 立場が、その人をすっかり決めてしまうことがある。立場が人(格)を規定する。

 ニコニコ生放送(以下、「ニコ生」)の面白さの本質は、(一)誰もが手軽に配信者になれること、(二)配信者(生主)とリスナーとの間に相互関係性が生まれること、の二点だと思う。

(二)は、

 生主の発言→リスナー1のコメント→それを拾っての生主の発言→リスナー2のコメント→……

という風に続いていく。つまり、ネット環境を介して「風景」が「進行」していく、まさにこのことに驚嘆すべき全てがあった。

 ニコ生は一時期の盛り上がりを経て落ち着いて、そのあと堕落しつつあるように思われる。今回はそのことの究明でもある。ちなみに、私は内在的要因だけを取り掴みたいと思い、例えばツイキャスがめちゃくちゃ流行ってその分だけにこ生が廃れたといった外在的な、荒い説明は最初から放棄する。

 筆者は2012年くらいから、ニコ生を本当に見たい時にだけ見る、という関わりをしてきた。ニコ生の魅力がなくなっていくのに、大体次の事柄が大きく関わっていたように思うのだ。

 (A)生主同士のなれあい

 発生の起源は分からないが、「慣習」としてニコ生にはスカイプを通じて放送中に生主のところに通話が入る、それを受けて「風景が進行していく」という凸がある。現在でももちろんある。

 凸で、生主どうしがとてもなれ合うことがある(それはしばし現実の恋愛関係に発展することがある)。それはしばしばリスナーをほったらかしにする。筆者は、ニコ生の一番の面白さはたくさんのリスナーと生主が何かひとつのやんわりとした空気に包まれるところにあると思っているのだが、生主からすれば放送をする動機の実に多くが「時間つぶし」であるため、特に異性同士である生主どうしの関係は、そういったなれあいになることが多かった。そしてそれはリスナー目線からすると必ずしも心地よいものとは思えないものだと私は感じるのである。

 この時なぜか生主/リスナーという関係性が、さきほど図説した「進行する風景」のヨコのものではなく、れっきとした上下、つまりリスナーは生主の領域には入れない、という風に変化するように感じられるのだ。

 脱構築主義的な視点からいえば、おそらく放送というものは相互関係性(インタラクティヴ)のなかでさまざまな解釈者=視聴者の受け取りによってその度脱構築し、放送そのものが「あちらへこちらへ流れていく」、つまり風景が進行していくのが楽しいのだと思う。

 しかし、現実のニコニコ生放送は、そうならなかった。生主とリスナーの関係はしばし絶対的なものとなって、そのお互いの浸食を究極的な所で阻んだ。

堕落した原因がもう一つ。 冒頭に掲げた(一)に対応するのだが、スマートフォンが普及したことにより、配信が恐ろしいほど簡略化され、かえって過剰を引き起こし全体としての質の低下さえ招いた、ということである。

 つまり放送=表現 の全体の質の低下。量ではない。質の低下。

これがニコ生衰退の内在的要因である。

 いまのニコ生はひとつも面白くない。つまらない日常と化してしまった。

とは思うが、どこかで自分の説明のどこかが足りず、ニコ生はまだ面白みがあるのではないかという希望は持っている。 

misty/uiro



 1月に完成した小論文「法を超えるために ホッブズ、カント、スピノザの政治哲学」を公開します。

政治文章に興味のある方はご覧下さい。 この記事では第二章までです。第三章と注は次の記事に掲載しています。
 


法を超えるためにホッブズ、カント、スピノザの政治哲学

蜜江田初郎

 

(目次)

序章

第一章 ホッブズ的“力”の概念

第二章 カント的法治主義と押さえ込む力

第三章 スピノザのマルチチュードと力

結論 スピノザ以後

 

 

序章

 政治哲学者の柴田寿子は『現代思想 特集ホッブズ』[1](以下、『現代思想』)へ寄稿した論文において、ホッブズの社会契約論に見られる政治観を「力の政治」、カントのそれを「法の政治」と呼んだ上で、その内容を検証していく[2]。実際以下で記述される通り、ホッブズの政治理論における「力」の概念だけでも議論はかなり複雑なものとなっている。しかし例えば、昨今の安倍第二次政権の行動とその報道陣による伝えられ方は、しばしば派手なパフォーマンス性を強調するだけのものとなっている。それも受けてか、政権への批判の論調は、じつに一枚岩的な「力の政治」の観念をベースとしてしまっているものが多いのである。

 ちなみに、上の『現代思想』においてホッブズが特集された背景には、9.11に端を発してアメリカが仕掛けたイラク戦争の混迷や、政治記者のロバート・ケーガン氏による政治論争の引き起こしがあった。現代日本の政治は10年前のアメリカ政治とますます似通っているということなのだろうか? だとすれば、子ブッシュ政権的な断行主義が勢いを失って、代わりに話し合い/合意の政治により舞台にあがったオバマ政権が今再びそのスマートさを失っているということは、法の政治(カント的法治主義、話し合い/ルールの原理)を力の政治に優越させるだけでも問題解決にはならないということを示唆している。

 本稿ではそのような「法か力か?」といったような 二項対立的な政治(原理)の見方を再考するよう促し、法と力の共犯関係をいかに乗り越えるかを実際的に検討していこうとするものである。第一章ではホッブズを扱う。ホッブズの「力」をめぐる記述を検討し、整理しなおす。第二章ではカントの法論を扱う。その際カント的「法の力」がいかにアポリアに直面するかを描くであろう。第三章はホッブズもカントも乗り越えるためのスピノザの政治哲学を検討する。結論として3人以後の地平にどのような政治哲学が描かれるべきかが少しでも示せればいいと考えている。

 


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