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私・暴力・他者(仮) (第一回)

■〈加害性を有する私〉

 出発点として、こうはじめよう。

私は世界を傷つける。私は世界に在る人たちや事物を傷つける。

 このとき、世界は傷つけられる対象といったものではない。文法問題に置き換えてはならない。あくまで、傷つける私が、世界を傷つけるのである。世界に居る人たちや事物を傷つけ、貶め、破壊するのである。〈加害性を有する私〉という概念の提出からはじめたいと思う。

 私は、どうしようもなく野蛮である。言いかえれば、どうしようもなく野蛮や狂気に彩られているときがある。そんなことはない、とか、そんなときの私は私ではない、とかいうのは辞めよう。私は時に狂気に満ちた存在である。しかもそのことが、近代的な言説たる私=主体の論理とパラドキシカルな形で併存できるのである。

 加害性とは、人間や事物を傷つける恐れのことである。私は時に、もしくは少なからず加害を行使する。現に拳をあげるのは確かに私の手なのである。現に怒りが噴出するのは私の口からなのである。現に人間関係を破綻させてしまったのは私の混乱した精神なのである。

 私という存在は、主体的に自律(自立)しながらもなお、加害を行使することがある。私は危険に満ちた存在である。

 このことを多くの現代人が否認している。人間とは時にどうしようもないほど野蛮なのである。それなのに、理性の信仰によって、現代科学は、現代の道徳は、私を一つの完璧に仕立て上げられた完成品だと見なす。私が暴力をふるうはずがない、こともあろうに私だけは狂っていない、この世には暴力から隔離された場処がある、等々。暴力から隔離された場処がある? 私はひび割れている、そして私は危害を現に加えうるのである。何処に。世界に。世界に存在する人たちや事物に向けてである。

 〈加害性を有する私〉の第二の派生点を述べよう。それは、加害には必ず「応答」が伴うということである。私が時に加害を行使する、その時私が見るのは人たちの涙や怖れる表情、或いは端的に困った顔……。そう、加害には効果(結果)が伴う。しかし、それを私は見るのである。

☆ 

〈加害性を有する私〉 → 主体でありながらかつ、加害を行使する = 私

           → 加害の効果(結果)を私は見る

(続・予定) misty

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