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ニコ生(ニコニコ生放送)
立場が、その人をすっかり決めてしまうことがある。立場が人(格)を規定する。
ニコニコ生放送(以下、「ニコ生」)の面白さの本質は、(一)誰もが手軽に配信者になれること、(二)配信者(生主)とリスナーとの間に相互関係性が生まれること、の二点だと思う。
(二)は、
生主の発言→リスナー1のコメント→それを拾っての生主の発言→リスナー2のコメント→……
という風に続いていく。つまり、ネット環境を介して「風景」が「進行」していく、まさにこのことに驚嘆すべき全てがあった。
ニコ生は一時期の盛り上がりを経て落ち着いて、そのあと堕落しつつあるように思われる。今回はそのことの究明でもある。ちなみに、私は内在的要因だけを取り掴みたいと思い、例えばツイキャスがめちゃくちゃ流行ってその分だけにこ生が廃れたといった外在的な、荒い説明は最初から放棄する。
筆者は2012年くらいから、ニコ生を本当に見たい時にだけ見る、という関わりをしてきた。ニコ生の魅力がなくなっていくのに、大体次の事柄が大きく関わっていたように思うのだ。
(A)生主同士のなれあい
発生の起源は分からないが、「慣習」としてニコ生にはスカイプを通じて放送中に生主のところに通話が入る、それを受けて「風景が進行していく」という凸がある。現在でももちろんある。
凸で、生主どうしがとてもなれ合うことがある(それはしばし現実の恋愛関係に発展することがある)。それはしばしばリスナーをほったらかしにする。筆者は、ニコ生の一番の面白さはたくさんのリスナーと生主が何かひとつのやんわりとした空気に包まれるところにあると思っているのだが、生主からすれば放送をする動機の実に多くが「時間つぶし」であるため、特に異性同士である生主どうしの関係は、そういったなれあいになることが多かった。そしてそれはリスナー目線からすると必ずしも心地よいものとは思えないものだと私は感じるのである。
この時なぜか生主/リスナーという関係性が、さきほど図説した「進行する風景」のヨコのものではなく、れっきとした上下、つまりリスナーは生主の領域には入れない、という風に変化するように感じられるのだ。
脱構築主義的な視点からいえば、おそらく放送というものは相互関係性(インタラクティヴ)のなかでさまざまな解釈者=視聴者の受け取りによってその度脱構築し、放送そのものが「あちらへこちらへ流れていく」、つまり風景が進行していくのが楽しいのだと思う。
しかし、現実のニコニコ生放送は、そうならなかった。生主とリスナーの関係はしばし絶対的なものとなって、そのお互いの浸食を究極的な所で阻んだ。
堕落した原因がもう一つ。 冒頭に掲げた(一)に対応するのだが、スマートフォンが普及したことにより、配信が恐ろしいほど簡略化され、かえって過剰を引き起こし全体としての質の低下さえ招いた、ということである。
つまり放送=表現 の全体の質の低下。量ではない。質の低下。
これがニコ生衰退の内在的要因である。
いまのニコ生はひとつも面白くない。つまらない日常と化してしまった。
とは思うが、どこかで自分の説明のどこかが足りず、ニコ生はまだ面白みがあるのではないかという希望は持っている。
misty/uiro