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 動物としての人間に批判を加える――アイドルと性愛(4)
(前回までのまとめ)
A クリアで健全=権力(支配)をもった側  → ?
B Aから制圧され、隠匿化された領域 → 暗く強い性愛の場
 今回では、Aの性愛の様態について考察していきます。
 A、つまり支配的な場としての社会では、どのような性愛(恋愛)の力学が働いているか?
これをもっと具体的にいうと、「恋愛禁止」などの楔を打ち込まれてなお疑似―恋愛関係を仮装するアイドル―ファンといった人間関係の出現(および増大、常態化)は何をもたらしたか?
 これがポイントになります。
恋愛禁止、もっというと性的行為の禁止を命じられた各主体(そのほとんどは男性ですが)は、逆に禁じられたことにより、
 (1)性的行為をあたかも最終目標かのように、恋愛のプロセスを構成し直す
 (2)しかしそのゴールは禁止されているがゆえに、そこへむかっての無限の果てしなき欲望が生まれる
 そしてここからが大事なところなのですが、
 (3) 欲望=0から欲望=むげん をめぐる疑似恋愛の新たなゲームが開始される
 ここはオタクをやっている人はとくに分かると思います。
 欲望=100 になってしまったら、それは「ガチ恋」と俗に言われることです。
ガチ恋をのぞいて、オタクは欲望の半ば非―コントロール的な動態のなかで生きることになります。
 私は、2年ほど前までは、このことが実際的に何をもたらすのか、よく分かりませんでした。
せいぜい、禁止された主体は、その禁忌をやぶる(出会い廚の増加)ぐらいにしか捉えていなかった。
 しかし、そうではない。確かに禁忌されたことにより逆に欲望=100をそのまま駆使するというパターンも見受けられますが、私はそれよりも、人間関係の「新たな」(とひとまず言っておく)次元の出来に気付きました。
 それは、飼いならされた欲望のもとで、しかし完全に支配されるわけでもなく、「表面的な関係性」を「じっさいのところわりと実存的に」生きていく、という人間の生き方ないし人間関係の構築の仕方です。
 結局、恋愛や性行為の仲に結ばれなかったら、それはいっても友達どまりだし、しかしだからこそそこをもっと深く生きるのです。
 つまり、従来の恋愛関係が(すぐには実現できないことにより)引き延ばされ、結果として批判される。
批判されるとは、つまり再考されるということです。どういうことかというと、「恋愛や結婚が至上、というイメージが優位な社会において、友達関係のままでそれを深めていったりする」ことの意義が問われてもいるのです。
 ファン―アイドルの「恋愛禁止」は秋元康がそのほうがおもしろいんじゃない?くらいの気持ちで作った偶然的なものですから、さしたる大きな理由はありません。 まぁありますけど。
 しかし、アイドルの増大と、オタクの増大、及びオタク―アイドルのコミニュケーションの増大および常態化により、この点はますます大きなことになります。
 つまり、もともとは狭いアイドル―ファンの間での出来事でしかなかったものが、一部のもっと大きな人間関係において見られるようになっているということ。
 性行為を至上の価値と見做す恋愛の様態に再考を加え、それより、たしかに性行為も相対的な大切さを認めた所で、欲望0~99.9の間を生きること。
 いま、そんな人間関係が、実際に生きられている。
 このことは大きいことだと思います。
 以上が本連載で主張したい一番大きいポイントなのですが、これを補強するにあたり、「アイドルの常態化」についても一言述べておかなければならないように感じました。
 次回に続きます。  次回予定(今のところ)アイドルの常態化が意味するところ、主張の再考察
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