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原稿が一時的に紛失したので前回からの直接的なつながりではないですが、基本的にパッセージごとにある程度独立しているので読むのに困難はないと思います。

 「(ビ)カミングアウト」とはどういうことだろうか。それはとりもなおさず、外傷を経た後の行動・心理全体の〈過程〉のことを示している。〈レズビアン・アイデンティティーズ〉とは、アイデンティティを自分のものとするための強い宣言である。この生を、自己によって正しく生きるための。そのとき「カミングアウト」と呼ばれる一連の行為はしっかりと根拠を持ったものとなり、自分が新たに生きていくための宣言を告げることができる。〈ビカミングアウト〉で人はまた別の生への方向転換を宣言する。私は……である、私は……でない、ということで、自らの生を自らの言説の内に確保しなおすこと。それは戦略でもあり、見えざる大きな〈生政治〉の権力作用に対するこの上ない抵抗の策略を案ずる。

 

 そのような地点から『レズビアン・アイデンティティーズ』の三つ目のポイントは語られるべきである。抵抗とは、異性愛主義や「名付けの作用」が効果する「権力と非権力」への体制への異議申し立てであるのだが、何よりも堀江が見た「抵抗」の可能性は、〈生政治〉へのダイナミックな撹乱作用として語られるべきである。そこでは次のようなことが有効となるだろう――繰り返し、自己の性や性的指向をとりあえず自己の力の及ぶところにまで領域確保させること。自己の言説(カミングアウトの行為などにより)などにより自己の有利な範囲においてこの〈生の―闘争〉を企てること。

 

 性は身体に埋め込まれている。その点において、性は存在そのものなのである。あるいは、性は存在の核なのである。だけど誰がこの存在の核に適切に――何が適切、何が正義か?――関わっていくことができるだろうか?

 〈(性的)存在者〉は、こうして単独者―社会領域―全体主義のトリアーデのもとに布置されることになる。

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第一回の内容は、別ブログ「アイドルを遠く離れて」で公開しています。
こちらからどうぞ

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第二回  性は生政治である


 堀江有里は『レズビアン・アイデンティティーズ』(2015、洛北出版)の第一章で「レズビアン存在」という概念を紹介している。その本書での議論は後につづけるとして、まずはこの概念の名前のインパクトについて少し付言しておこう。「レズビアン存在」。それは「マイノリティ存在」とでも呼び変えうるだろう。そう、レズビアンやトランスジェンダーなどの「性的指向」とされているものは、本質的に、存在に属するもの(とみなされる)なのである。存在論の範疇にあるということである。レズビアン〈であること〉や、本書の議論の射程を不用意に広げて、例えば精神障害者〈であること〉等も、存在として己を見つめうる契機となるわけである。それはもっと言うと、存在の「核」に根ざしている。主体―存在が主体―存在であるための、本質的条件なのだ。ではどうして、〈レズビアン〉であることや、〈精神障害者〉であることが、主体―存在の核といえるのだろうか。

 

 マイノリティは、まずもって経験的な事象でもある。過程といってもいい。そしてマイノリティは、何らかのマジョリティから区別されることを通して、大小の傷を受けるという外傷経験なのである。なぜならマジョリティはマイノリティを抑圧するからだ(この抑圧をもっと広範囲に論じる必要があるのだが今は簡単にこう記しておく)。その抑圧の過程で、マイノリティ存在は何らかの傷を体験する。マジョリティの空間の規範は、「同一性による承認」である。つまり、互いに(存在者が)同じであることを確認し合って、お互いの主体性(存在の核)を承認し合う、という構造になっている。このことは、次のことをも意味する。つまり、マジョリティ空間においては、「差異による排除」というからくりも随伴しているということだ。

 人が右利きか、左利きであるかということは、科学がどれだけ調べ尽くしたところで、結局運命論的――先天的なところは残ってくる。つまり、人が右利きになるか、左利きになるか、どちらかになるかは、はっきり言ってほとんどどうでもよい。しかし、人はどちらかにはなるであろう(若しくは「両きき」か)。左利きになれば、あなたはその先人生において必ずこう言われることになる、「あ、君左利きなんだ、珍しいね」、と。しかも際限なく、いろんな右利きの人にだ)。統計学的には、右利きの人がマジョリティ権を獲得する。しかし、現実ではそれで終わらず、数の多数を得ることによってマジョリティとなる右利きの人たちは、「右利きの人が、数的に多い」ということで、互いに同一性に基づく自己確認をし合うのである。「自分は多数派である」と。そしてここから、左利きの人を、「珍しい」とまなざすようになるのである。

 自分で選んだのではない理由で左利きになった人にとっては、以上の事柄が所与のミクロ政治として実態にあらわれてくる。つまり、「お前は少数派だ」と暗黙裡に伝えられる運命が待ち受けているのである。ここで、左利きの人は、「自分はマイノリティなのだ(この言葉づかいは必ずしも正しいとは言い難いが)」という自己認識を持ち、それがマジョリティからの差異という形で自己の存在を同定するのである。ただし、マジョリティからの差異の認識そのものでは、まだアイデンティティを獲得するには至らない。至ってはいない。

 

 堀江有里の『レズビアン・アイデンティテーズ』においては、〈レズビアン存在〉は題目の中で「不可視性」というキーワードと共になっている(三十四―四十頁)。そこには、〈レズビアン存在〉という概念の名づけのアドリエンヌ・リッチと、著者の以下のような思いが込められている。すなわち、レズビアンというマイノリティの人々は、世間や社会から非常に見えずらい形で存在している。しかも、本書が明らかにしていくように、そこにはマジョリティ/マイノリティの構図の中でマジョリティによる抑圧作用を受けることによってだけでなく、ゲイ(男性)/レズビアン(女性)という集団ないし人の属性の非対称性によっても、二重に三重に見えずらい(不可視の)人たちとして在るのである。それは、彼/女たちが自分がレズビアンであることを公言する〈カミングアウト〉という行為をおこなうときにも、重荷となってのしかかってくる。これらの不可視性を認識し、それらがどうなっているのかと暴こうとする鋭い批判意識を持つのが、〈レズビアン存在〉とあえて「存在」の名前・概念をレズビアンに付したリッチと著者の共同戦略なのである。〈レズビアン存在〉はただ承認を得てそこに「傷のつかない」主体性を持って在「るわけでは一つもない」。


 動物としての人間に批判を加える――アイドルと性愛(4)
(前回までのまとめ)
A クリアで健全=権力(支配)をもった側  → ?
B Aから制圧され、隠匿化された領域 → 暗く強い性愛の場
 今回では、Aの性愛の様態について考察していきます。
 A、つまり支配的な場としての社会では、どのような性愛(恋愛)の力学が働いているか?
これをもっと具体的にいうと、「恋愛禁止」などの楔を打ち込まれてなお疑似―恋愛関係を仮装するアイドル―ファンといった人間関係の出現(および増大、常態化)は何をもたらしたか?
 これがポイントになります。
恋愛禁止、もっというと性的行為の禁止を命じられた各主体(そのほとんどは男性ですが)は、逆に禁じられたことにより、
 (1)性的行為をあたかも最終目標かのように、恋愛のプロセスを構成し直す
 (2)しかしそのゴールは禁止されているがゆえに、そこへむかっての無限の果てしなき欲望が生まれる
 そしてここからが大事なところなのですが、
 (3) 欲望=0から欲望=むげん をめぐる疑似恋愛の新たなゲームが開始される
 ここはオタクをやっている人はとくに分かると思います。
 欲望=100 になってしまったら、それは「ガチ恋」と俗に言われることです。
ガチ恋をのぞいて、オタクは欲望の半ば非―コントロール的な動態のなかで生きることになります。
 私は、2年ほど前までは、このことが実際的に何をもたらすのか、よく分かりませんでした。
せいぜい、禁止された主体は、その禁忌をやぶる(出会い廚の増加)ぐらいにしか捉えていなかった。
 しかし、そうではない。確かに禁忌されたことにより逆に欲望=100をそのまま駆使するというパターンも見受けられますが、私はそれよりも、人間関係の「新たな」(とひとまず言っておく)次元の出来に気付きました。
 それは、飼いならされた欲望のもとで、しかし完全に支配されるわけでもなく、「表面的な関係性」を「じっさいのところわりと実存的に」生きていく、という人間の生き方ないし人間関係の構築の仕方です。
 結局、恋愛や性行為の仲に結ばれなかったら、それはいっても友達どまりだし、しかしだからこそそこをもっと深く生きるのです。
 つまり、従来の恋愛関係が(すぐには実現できないことにより)引き延ばされ、結果として批判される。
批判されるとは、つまり再考されるということです。どういうことかというと、「恋愛や結婚が至上、というイメージが優位な社会において、友達関係のままでそれを深めていったりする」ことの意義が問われてもいるのです。
 ファン―アイドルの「恋愛禁止」は秋元康がそのほうがおもしろいんじゃない?くらいの気持ちで作った偶然的なものですから、さしたる大きな理由はありません。 まぁありますけど。
 しかし、アイドルの増大と、オタクの増大、及びオタク―アイドルのコミニュケーションの増大および常態化により、この点はますます大きなことになります。
 つまり、もともとは狭いアイドル―ファンの間での出来事でしかなかったものが、一部のもっと大きな人間関係において見られるようになっているということ。
 性行為を至上の価値と見做す恋愛の様態に再考を加え、それより、たしかに性行為も相対的な大切さを認めた所で、欲望0~99.9の間を生きること。
 いま、そんな人間関係が、実際に生きられている。
 このことは大きいことだと思います。
 以上が本連載で主張したい一番大きいポイントなのですが、これを補強するにあたり、「アイドルの常態化」についても一言述べておかなければならないように感じました。
 次回に続きます。  次回予定(今のところ)アイドルの常態化が意味するところ、主張の再考察
 ******
 昏く強い場所――アイドルと性愛(3)
 周辺へと閉じ込められ、しかしそのことによって逆に性愛はパワーを持ち、あるいは一定の様式を維持する。
それが、「位く強い場所」と呼ぶ性愛の空間です。
 クリアで健全な社会――というより、表向きのアイドル現場は、(AKB時代の存続で)「恋愛禁止」ということが常態化しており、それはとうぜんにもアイドルメンバーとファンとの間にも適用されていきます。
 しかしAKB(の様式)がもたらした中の一つは、「アイドルとファン」との近接性。
「会いに行けるアイドル」というのは、まずもって身体的な近さ(握手会、劇場の狭さ)をもってすることで、心理的及びその他の近さを実現するという、画期的な試みであった。 (このへんはフーコーっぽいですね)
 そしてAKBがその2000年代に原点として「近接性」をもたらしたのだとすれば、それをうけるロコドルたちは近接性をうまく使用していきます。
 福岡の事例になりますが、その「近接性」をまず実際面でさらに展開した一連の動きがあります。福岡老舗ロコドルの、HRの「3分間物販制」です。
 このシステムは福岡で一番売れているLinQにも接ぎ木され、またたくまに物販体制のお手本になりました。
この3分間物販制というのは、HRだと公園が終わってから公演に出演した全メンバーが椅子に座って待機しています。ファンは(お金で買った)コインと引き換えに、1枚写真をもらい、それをサインしてもらいます。
 サインの時間に3分も必要ありません。ですから、この時間は話ができる時間となります。
 AKBも初期は違うのですが、流行した今はどれだけ長くても一回15秒しゃべれるのが限界、と聞いていますから、3分は絶大です。コインを投入すれば間隔をあけてさらにしゃべることができる。
 この時、アイドルとファンの関係は、極めてフラット、水平的なものに近くなっていきます。しゃべるのも、公演の様子は勿論、最近どうだった、とか、学校でこんなことがあって、とか、ものすごく「個人的な」話までできることになります。
 ここに見られるのは垂直的な関係から水平関係への雪崩込み。構造としての。
 その結果、アイドルとファンとは激しい近接性で結ばれ、その結果「ガチ恋」や「繋がり厨」と呼称されるファンもたくさん出ることになります。
 福岡にいれば、このアイドルはこのオタクと付き合っていた、今付き合っている、付き合っていたからクビになった、という話が嫌でも耳に入ってきます。
 先に話したように、あらかじめ「恋愛禁止」の札を公然と貼られているのはアイドルのみなので、しかもそれがスキャンダラスなものとして設定されているので、このルールを破るということがいかに昏いものかは分かると思います。
 しかしこうした場所での性愛(恋愛およびセックスなど)は強い。強いという形容はおかしければ、倒錯的なものに対しての「本来的」な場所です。
 つまり、恋愛(というかセックス)をするなという人間の本能的な行いを禁じられた空間において、禁忌の場所として閉じ込められた性愛の領域は、それを破るものにのみ、本来の「本能にフツーに従った恋愛」を育むのです。
 これが私の「暗き場所の性愛様態」と呼ぶものです。
次は、クリアで健全な方で起こった変化について論述します。
******

 打ち間違いとか、単に「私」でいいのに「〈私〉」となっていたりと、原稿を読み返すだけでたくさんの間違いがあります。。



承前 (前回は 直前記事) 


 僕は音を聞いていた――様々な音を集めたその一枚のCDが、当時中学生の僕をよくある音楽好きの少年に育て上げた。さきほどいつもの用事を済ませて何の気なしにかけた九トラック目にさしかかって、その曲は僕にとても執拗な感情を迫ってきた。つまり、哀しみについて、考えろ、と。そう言われてみればそれは哀しみについての曲、でもある気がした。ある気がしたと言うのは、その曲は単純な言説では説明できなかったからだ。僕はその音の理解にいたってなかった、と言うべきなのだろう。そして、それの解明に、解明などと大それたことを言わずともできれば寄り添うことに、僕の思考と身体は向けられた気がした。それ以来、この“問い”について、考えている。

 

絶望。絶望、絶望がおそいかかってくる。はっと気づけば私は絶望そのものとすり替わっている。例えば、あの時は何もかもが終わりだった。そう思う時があった。そしてこのせまくるしい身体からこのちっぽけでむせび泣いているたましいを、何とか解放してやりたかった。それには鋭利な刃物と、それからすこしばかりの勇気が足りなかった。苦しみ。生きていることが苦しいということ。苦しみは確実に私たちを蝕んでいく、醜い蟻の大群が死んだ蝉をどこまでも食いつぶしてやがて蝉は文字通りもぬけの殻になる。身体は痙攣しやせ衰え、魂は活気をなくして呆けてしまう。諸悪の根源は、いつだって人は人から生まれてくるということなのだろうか? 私はいつまでたっても血縁から要請される、お気楽な期待のかかった、規範的な同一性を身につけて生活をしなくてはならないのだろうか。

 「それは無理だ・‥・‥。」 ひとつの声が応じる。私を見てくれ、余所を見るんじゃなくて、この私の有様をもっとよく見てくれ・‥・‥お願いだ・‥・‥。などと。

 

 やってくる絶望とセットになるものに、いったい幾つもの形容がつけられるだろうか、ヘンリー・ミラーの恐ろしいまでのリストアップのように? それは例えば堕落でもありうるし、うつ、自己倦怠、メランコリー、ノイローゼ、ヒステリア、困惑、葛藤、ジレンマ、衝動、発作、動悸、いやもういい……。大切なものから、見放されたら、誰だって悲しくなる。それが度を過ぎると、物事はもっと大きくなる。そういうものだ。そこにおいて、人はある程度の人間関係を制度的にも、それから心理構造的にも、植え付けられている。条件なしの人間など経験上ではなかなかありえないということだ。

 だとすると、重要なことは、そうした幾つかの前提――生まれてきた年、生んだ人、祖父祖母、親戚、もちろん生まれてきた場所、その環境、瑣末なことには生んだ人の頭脳知数といったものまでも……どこまで前提の対象として含むかは程度の差もあろうが――をとりもなおさずいったん受け止めて、そこから物事を思考すること。当たり前のように聞こえるが、そんな作業もこうやって経験上のことをテキストにしたり、とにかくこの身から引き離して対象として捉えるということ――それが必要である。

 人間は少ない武器しかもたないのだろうか? 武器、たしかにそれは少ないものでよいのだ。自分の手に合ってくれれば。身軽で、しかしそれを装備すればきちんと自分の中心点に戻ってくれるような。


(続く)


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