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光枝ういろうです。

この記事の真ん中に付しているのは、私が2月末にある出版社に提出した論文の一部だ。その論文の中で私は「資本主義と森」の関係について考察していったのだったが、それはその問いの大きさを確認するにとどまっていただけなのかもしれない。

その「付録 疎外論への手引き―資本主義と森」では、労働によって人が阻害されるという、主に資本主義が人の労働にもたらす悪を考える際に、そのテーマを導入したのだが、結局テーマをつかむだけに終わり、疎外論には最終的にはいたらなかった。

ひとまず、疎外論は置くとしても、先日の「もののけ姫について 草稿」(この記事の前の記事。バックナンバーを参照されたい。)にしても、森と社会の関係性が、とても私を思考へ誘う。そのため、自分が自分が書いたことを整理するためにも、ひとまず文章を引いておく笑。

***

森という〈自然〉

 資本主義を語る際に、始原的な森、〈自然〉について言及せぬわけにはいかない。それらは対立物どころか、これから見ていくように、ほとんど区別のつかないものであるのだから。資本主義の生みの親とは、まさしく〈自然〉である。そして資本主義とは女神から生まれた悪魔なのだ。誰もなにも悪魔に仕立て上げたわけではないし、誰もなにも悪魔という性格を消滅しないだろう。
 〈自然〉とは、人間にとって(1)主体にもなれば、(2)対象にもなり、さらには(3)畏怖=尊重すべきもの(you)にもなるという、驚くべきものである。始原的な森、これをあのヨーロッパ的な馬鹿馬鹿しい概念からは慎重に区別しなければならない。釈尊は菩提樹の下で好んで瞑想にふけったのであった。ツリーというよりリゾームとしての菩提樹。仏教とは何にもまして森から生まれた産物である。生命の多様性としての森。これ以上に語るべきことがらはない。森には無数の力が複雑に絡み合って働いている。注意しなければならないのは、森はそれ自身が一つのリゾームであると共に、個々の有機体・非有機体ですら一つのリゾーム圏を備えているのである。生命を超えた〈超生命〉。この〈超生命〉は、ただおのれの全力のエネルギーをもって、自己に周辺に力を及ぼす。この力学が解明されなければならないのだ。そこでは石ころでさえも一つの構成要素なのである。一にして多、多にして一を理解する際に森を例に取ることは不可欠であろう。ブナの木の葉のさざめきは、小川の流れに呼応する。と思いきや、その小川の流れは地中のフンコロガシに優しく語りかけるのである。地中のフンコロガシの体内には無数のバクテリアが存在していて、“腸内環境”という一つの宇宙を形成している。森のこうした宇宙性を理解するのは、おそらく科学が得意とすることではない。もっと私たちの生に訴えかけてくる、直感のような共鳴のような、動物としての私たちが問われているのだ。思い出せ、人間は、動物なのだ!それは少しも皮肉な事柄ではない。動物としての私たちは、ただただ生命体である。そこでは石ころもブナの木の葉も小川の水滴もフンコロガシもすべてが同じで、私たちは如何様にもなれたのである。AからBへ、BからCへ。A=Bであり、B=Cである。そうして、一つの適当な解Xが存在する。すなわち、A=B=C=‥・=X。このXが森であり、全体的な生命体の集合として、かつそれ自身が一つの独立した超生命体であるような体裁をまとっているのだ。
 
***

うーむこれは。 解Xがすなわち『もののけ姫』で言うところの、しし神なのか・・・?

『もののけ姫』では、人間によって攻撃される対象としての<森>、それから動物を受け入れる場所としての<森>、そして最後に人間をも受け入れようとする<森>の3つのレベルが少なくともあったはずである。

しし神はある役目を持たされている。それが、生命を操ることだ。生命与奪。しし神のいる意味とは何か。生命を与えたり、反対に奪ったりするのは。

 最初、アシタカがサンに連れられて癒しの場所に向かった際、アシタカの致命傷は治ったものの、呪い神によって刻印された傷までもは癒えなかった。それを、アシタカは、「この苦しみと呪いとともに生きていけというのか」、と、しし神のメッセージとして捉えた。

しし神がでいだらぼっちとなるとき、その超―生命体は、社会だろうが森だろうがなんでも影響を及ぼす。<破壊神>、あるいは悪魔である。

 この悪魔と対峙するとき、人間と森、すなわち社会と自然とは必然的に手を取り合わなければならない。

だとしたら、しし神は自らでいだらぼっちとなって敵化することによって、社会と自然とを近づけさせたとでも言うのだろうか。

『もののけ姫』のラストでは、アシタカは人間側、サンは動物(森)側の存在者として描かれている。
 この物語が伝える範囲内では、人間と森の共生の方向は、アシタカがたまにサンのもとに行く、それ以外は社会は社会で、森は森でやっていく、といった感じである。答えが先送りな気はするが、そうではない。彼らにはでいだらぼっちを無に返したという<歴史>がある。<歴史>のつながりによる、人間と自然とのゆるやかな共生。『もののけ姫』の最大のメッセージとは、これではなかろうか。

(連載にします。続く)
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早いものでこのエッセイも第六回となった。

 エッセイ集ということで、筆者もかなり思いつくままに連載しているし、内容も雑多なので、非常にまとまりが悪いと思う。
ここまで簡単にまとめておくと、

仏教の祖シッダールタは、世界真理に到達し、悟りの境地に達してからも、その後の仏教団をどうするか、混乱したインド情勢は、自分の死は、というふうにさまざまな課題に追われていた。
 それはなぜか?
シッダールタが達したのは、自己の世界についての真理だったからだ。自己は最大限に肥大化され、世界理解にまで押し広げられた。
 しかし、自己世界以外の世界もある。

ならば、現代に生きる私たちは、自分とは何かという第一の問いを超えて、次のステージに進まなければならない。
 
 自己というものをなお理解しても立ち現れる、世界とは何だろうか、と。

そこで、唐突ではあるが、前回、中沢新一を引き受けて、世界理論の構築を宣言したのだった。
前回は軽く触れて終わったが、前回の記述はやはり、ルーマンの社会システム理論とかなり似ているのである。
 ならば、ルーマン理論とどのように違い、どのように似ているのか、そして社会(世界)を記述するよりよい方法とは何かを考えていかなければならない。

ところで社会学者ルーマン受容は、ここ最近になって花開いてきている。ルーマンを専門的に研究した学者たちが、自分たちの理論や応用を積極的に展開しだしたからだ。
 しかし、ルーマン研究は、ルーマンの初期の著作に限られがちである。宮台は、「彼の主張はいつも同じだ」と言って、著作をずっと読んでいると言いながらも、後期著作については何も触れていない。
 それは正しいのだろうか? 特に、社会シリーズは、膨大な言説と難解な言葉廻しで有名である。あれは、本当に初期のテーゼの繰り返しにすぎないのだろうか?

バイロジック各論では、思い切って、そうした後期ルーマン著作の研究もしてみたい。ルーマンのテーゼをはっきりさせることで、私たちの足取りも同時にはっきりさせることができるからである。

もう一方で、第五回に端を発した、独自のテーゼも、ゆっくりと展開させたい。この両方を開始することで、私たちのとりあえずの目的が達せられるであろう。

.1、世界の受容

 ここでは認識論に立ち戻ろう。 世界とは何か、世界を認識する自己とは何か。実はこの二つの問いは同時に答えが導き出される。

自己/世界 と区別をするのであれば、そこには「自己と他(世界)とは何か違う」という意識が前提のもとに置かれていることになる。
 だが、注意をしなければならないのは、区別とは一通りのものではないということだ。区別にはいくつかやりかたがある。
 ここでは、形式的区別・実質的区別の二者を呼び出そう。
すると、先ほどの、「自己と世界とは何か違う」の「何か」には、特段の内容は含まれていないのであるから、形式的区別ということになる。形式的区別とは、とりあえず線を引いておく、ということである。

 私たちは、とりあえず形式的区別を引いて生活をする。それはおそらく、自己を守るためであろう。
 自己を守るため、とは、自己が理解不能の領域に達しないようにする、ということである。
 自己が理解不能になってしまったら、人は絶えず精神病に悩まされることになる。もちろんここには医学的な研究が必要不可欠であるが、それにしても私たちは、自己をある程度持っていないと、生きることがむつかしくなるのである。

ということはだ。世界とは違う自己を守るということは、自己には自己なりの世界が成り立っているということだ。言葉を変えて言えば、自己の中には乱気流みたいな世界とは区別された、独特の世界観があるということである。
 この世界観のことをシステムと呼び換えておこう。システムとは、あるまとまりをもった体系、くらいの意味である。

とすると、自己を前提とする限りで、自己/世界 の二つが区別されることになる。その区別とは言えば、自己には自己流のシステムが備わっている、一方で世界は乱気流である、という風にだ。少なくとも、自己は乱気流のようにはなっていない、ということが確認されれば、自己/世界 の区別は達成されたことになる。

では、乱気流ではない自己とは、仮の姿に過ぎないのだろうか? おそらく、そうである。私たちは、主体という見方にはまっている。主体とはかくあらねばならない、主体が明確になってはじめて、世界は整然としたものになる、云々。
 言ってしまえば、自己が本当に乱気流でないのかどうかはどうでもいい。 そもそも、乱気流をどう説明すればいいのだろうか? 本稿の真の問いはそこにある。

A / Aでないもの

と二つに分けるのが論理学の伝統のやり方であるが、これでは例えば

B

という要素を完璧に見失ってしまう。
Aでない、つまり理論的ではないからといって排斥されたものが、実はBという要素によって新たな論理を与えられたら。
Aではないから、という証明があるだけでは、実は何も言ってないに等しいのである。

かなり記述が乱雑になったので、次回まとめよう。

【仏教から仏教へ】バイオロジック総論1【第五回】

 世界=現実を語るための、ある公理系を示していこうと思う。

 基本的なテーゼは、

1世界は、ありとあらゆる二つのシステムから成り立っている。
2、二つのシステムは、互いに理解不可能である
3、1番目のテーゼは、世界の8割くらいの部分しか言い当ててない。残りの2割は、常に把握不能である。

 そしてもうひとつ採用したいのが、現象学的関係主義だ。つまり、物事は、何か実在したものたちがあうというわけではなく、関係がまずはじめにあって、そこから個が生まれるということ。関係が「あって」個が表象されるのだ。

 例えば、文系/理系 という区分。 これは、あいまいで大衆的な話題に聞こえるかもしれないが、確かにこのような区別は存在するのだ。

ザ・理系人間 と、
ザ・文系人間 がいて、これらは少数派である。そして多くの人たちは、
理系と文系がばらばらの割合でまじりあっている人

ということになる。
 理系の世界からしたら、文系の世界はよく分からない。理系の言葉で置き換えてしまう。
また逆も、文系からしたら、理系の世界は肌に合わない。避けてしまう。

 しかし、筆者が主張したいのは、理系か/文系か、という二者択一ではなく、どちらともあわさって世界は構成されているということだ。そして互いは互いをそれぞれ全く説明できないのである。

 文系の気持ちを代弁できるのは、文系だけだ。
反対に、理系の思考を代弁できるのは、理系だけである。
 文系が、理系世界を翻訳すると、非常にかくばったイマイマしい印象を与えられる。 理性の狂気、とか、科学万能主義、とかだ。けっしてそんなわけではなかろうに。
 

 そして、理系が文系世界を翻訳すると、なんんでもかんでもかくばったものに変わり、文系特有の情動とか流れとかを全く理解できない。小説の面白さが分からないし、ロマンティシズムも理解できない。

ここからミちびだされるのは、次の第五テーゼである。すなわち・・・


5 同じものは自ら同じものを同じだと宣言し、違うものは自ら違うものを違うといい、つまりループしている。「俺は俺だ!」「私は私!」のループである。 ルーマン理論と非常に親近している。

 しかし大切なのは、「俺は俺!」「私は私!」と叫んでいる二人の訳者が、その二人そろって初めて世界というものができているということなのだ。
 どちらかいっぽうではない。片方は他方を吸収できない。

二元論だ。

(おしまい)

【第三回】『千のプラトー』で思考の戦士になる【仏教から仏教へ】

 仏教の始祖であるゴーダマ・シッダールタは、悟りまでの自身の生活を、考え抜くことに費やした。
仏教がいかに生まれたのか、悟りはどのようにして開けたのかを知るためには、そのことを忘れてはならない。彼は、思考の果てに、完成に近づいたのである。デタラメに思念していたわけではない。

二つ目に、ゴータマ・シッダールタもまた、その時代と場所に強く規定を受けて生まれてきたものだということである。古代インド・小国同士がが乱立し、政治情勢が不安定な中でゴータマは王子として生まれた。理不尽な現実は、彼を悩ませた。
 また、インドは西洋とは違って、より多くの生命直に満ちた環境であった。
現代はまた、独自の空気を持っている。
 ただ漫然と、今仏教の経典をめぐっていても、それだけではみのらない。 現代において、仏教はどのようにして読み直されるべきなのか。
それはとりもなおさず、今という時代性、歴史性を深く考察することにある。

3つめとして、やはり思想は元気が出るものでなければならない。どんなに立派な考え方であっても、それが人に生き生きとした感動やダイナミズムを与えるものでなければ、挫折してしまう。

 以上の3点から、ドゥルーズ(とガタリ)の書物を取り上げるのがよいと判断した。
 まず、ドゥルーズは、(現代という時代にありながら)時には粘りっこく時にはダイナミックに、思考を重ねている哲学者であるという点。それから、現代(特に、資本主義社会、家族や国家に捉われる社会など)を彼が強く意識し、現代を抜け出すために考え抜いているという点である。
 3つめ、これは私たちの課題であるが、ドゥルーズは、本当に人を元気にさせる。確かに彼の思想は難しいところもある。しかし、その根底はいつも、子供のような輝いた心とどこまでも冷静な大人の洞察力に満たされている。

もういいだろう。そういうわけで、迂回な方法をとるわけではない。 現代を生きたドウルーズの思想を活用することで、仏教を現代に甦らせよう。


(以下、ノート形式)

ドゥルーズ 『千のプラトー』 10章 強度になること、動物になること、知覚しえぬものになること…

●『ウィラード』論 pp.269-270

 ここは、第10章の手引きとなっているところである。
・まず最初に、訥々にも「動物への生成変化」というキーワードが語られる。
 人から動物になること、変わることを、なぜドゥルーズは重要視するのだろうか。
 ここでは、次のことが大切である。

「まず、相似を経由することだけでは満たされず、それどころか相似によって妨害され、阻止されるような動物への生成変化。」(pp.269)

 相似は、生成変化とは似ても似つかぬものらしい。ドゥルーズは、『ウィラード』という映画の中にねずみによく似たただの人間という登場人物が出てくることを語るが、「動物のような人間」(相似)は、「人間が動物になること」(生成変化)とは全く別のものだということである。それどころか、「動物のような人間」に捉われることは、生成変化を阻害までする。

・分子状態 ⇔ モル状態
 ねずみの群れが「分子状態」にあたり、脳がすべての器官を統制する(脳支配説)合理的人間は、「モル状」である。これら両者は別である。

「戦争機械」、犯罪機械
 同じものの中にいながら、自己破壊をしてしまう機械。 人間の体内の異物がこれに当たるのではないだろうか。

これらを挙げたうえで、最後は問いかけで終わる。同じ一匹の動物が、二つの運動にとらわれることがあろうか?
 Aは、Aであるとともに、非Aでもある、というけったいなことが言えるのだろうか? 二項対立で物事を整理する西洋論理学への、挑戦である。

(misty)
 現代とは、どんな時代であるのか。

仏教観は、この問いに一つの形を与えてくれる。

曰く、どんなものや時代でも、ハッキリとした枠を持つものではない。

近代やポストモダンの定義や素描に四苦八苦している現代哲学や社会学は、このことを端的に忘れている。
 ならば、こう定義すればよい。
現代もまた、何らかの、流れる、移行期であると。

近代とは、いわば<セカイ系>の世界である。
 そこには、①自律した個人主体と、②それから導き出される理性の共和国、がある。
しかし、逆を言えば、その二つしか導き出せないのだ。

ならば、こうは言えないだろうか。
 近代とは、個人の自由を求め、ただひらすらにそのことを悩み葛藤し、そうした個人の主体性が、即セカイとつながるような価値観である、と。

 もちろん、これは窮極の形式に過ぎない。主体を完成させた個人が世界と現につながるなど、これまで見たこともないし、これからも起こることはありえまい。
 しかし、近代とは、間違いなく上のようなことをその本質において有しているのだ。

 近代をこう捉えると、現代というのが、どんな本質を有しているのかも、考えやすくなる。

即ち、
 個人が今も自身の主体性を求めて悩んでいる過程の中で、

”また同じように悩み苦しんでいる隣人の存在にハタと気付き始めた”時代ではなかろうか。

気付いたのだ、世界は決して、自分だけで完結しているものではなかったのだ、と。
 自分さえ救われば、すべてが解決するようなシロモノでもなかった、ということに。

隣には、いつも、同じように苦しんでいる隣人がいた。
垂直の価値観の中に、水平線が出来上がったのだ。

 今度は、その水平線の中で、それでも自己に何ができるか、それを考え実践していく。

 筆者は、「原発ゼロ」の声が時間とともに今や半数を超え始めているのを見て、そういうことを実感した。

ポスト・モダンは、他者とともに自分がどう在るかを考えていく、そういう時代である。

(終)
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