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【仏教から仏教へ】バイオロジック総論1【第五回】

 世界=現実を語るための、ある公理系を示していこうと思う。

 基本的なテーゼは、

1世界は、ありとあらゆる二つのシステムから成り立っている。
2、二つのシステムは、互いに理解不可能である
3、1番目のテーゼは、世界の8割くらいの部分しか言い当ててない。残りの2割は、常に把握不能である。

 そしてもうひとつ採用したいのが、現象学的関係主義だ。つまり、物事は、何か実在したものたちがあうというわけではなく、関係がまずはじめにあって、そこから個が生まれるということ。関係が「あって」個が表象されるのだ。

 例えば、文系/理系 という区分。 これは、あいまいで大衆的な話題に聞こえるかもしれないが、確かにこのような区別は存在するのだ。

ザ・理系人間 と、
ザ・文系人間 がいて、これらは少数派である。そして多くの人たちは、
理系と文系がばらばらの割合でまじりあっている人

ということになる。
 理系の世界からしたら、文系の世界はよく分からない。理系の言葉で置き換えてしまう。
また逆も、文系からしたら、理系の世界は肌に合わない。避けてしまう。

 しかし、筆者が主張したいのは、理系か/文系か、という二者択一ではなく、どちらともあわさって世界は構成されているということだ。そして互いは互いをそれぞれ全く説明できないのである。

 文系の気持ちを代弁できるのは、文系だけだ。
反対に、理系の思考を代弁できるのは、理系だけである。
 文系が、理系世界を翻訳すると、非常にかくばったイマイマしい印象を与えられる。 理性の狂気、とか、科学万能主義、とかだ。けっしてそんなわけではなかろうに。
 

 そして、理系が文系世界を翻訳すると、なんんでもかんでもかくばったものに変わり、文系特有の情動とか流れとかを全く理解できない。小説の面白さが分からないし、ロマンティシズムも理解できない。

ここからミちびだされるのは、次の第五テーゼである。すなわち・・・


5 同じものは自ら同じものを同じだと宣言し、違うものは自ら違うものを違うといい、つまりループしている。「俺は俺だ!」「私は私!」のループである。 ルーマン理論と非常に親近している。

 しかし大切なのは、「俺は俺!」「私は私!」と叫んでいる二人の訳者が、その二人そろって初めて世界というものができているということなのだ。
 どちらかいっぽうではない。片方は他方を吸収できない。

二元論だ。

(おしまい)
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