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早いものでこのエッセイも第六回となった。

 エッセイ集ということで、筆者もかなり思いつくままに連載しているし、内容も雑多なので、非常にまとまりが悪いと思う。
ここまで簡単にまとめておくと、

仏教の祖シッダールタは、世界真理に到達し、悟りの境地に達してからも、その後の仏教団をどうするか、混乱したインド情勢は、自分の死は、というふうにさまざまな課題に追われていた。
 それはなぜか?
シッダールタが達したのは、自己の世界についての真理だったからだ。自己は最大限に肥大化され、世界理解にまで押し広げられた。
 しかし、自己世界以外の世界もある。

ならば、現代に生きる私たちは、自分とは何かという第一の問いを超えて、次のステージに進まなければならない。
 
 自己というものをなお理解しても立ち現れる、世界とは何だろうか、と。

そこで、唐突ではあるが、前回、中沢新一を引き受けて、世界理論の構築を宣言したのだった。
前回は軽く触れて終わったが、前回の記述はやはり、ルーマンの社会システム理論とかなり似ているのである。
 ならば、ルーマン理論とどのように違い、どのように似ているのか、そして社会(世界)を記述するよりよい方法とは何かを考えていかなければならない。

ところで社会学者ルーマン受容は、ここ最近になって花開いてきている。ルーマンを専門的に研究した学者たちが、自分たちの理論や応用を積極的に展開しだしたからだ。
 しかし、ルーマン研究は、ルーマンの初期の著作に限られがちである。宮台は、「彼の主張はいつも同じだ」と言って、著作をずっと読んでいると言いながらも、後期著作については何も触れていない。
 それは正しいのだろうか? 特に、社会シリーズは、膨大な言説と難解な言葉廻しで有名である。あれは、本当に初期のテーゼの繰り返しにすぎないのだろうか?

バイロジック各論では、思い切って、そうした後期ルーマン著作の研究もしてみたい。ルーマンのテーゼをはっきりさせることで、私たちの足取りも同時にはっきりさせることができるからである。

もう一方で、第五回に端を発した、独自のテーゼも、ゆっくりと展開させたい。この両方を開始することで、私たちのとりあえずの目的が達せられるであろう。

.1、世界の受容

 ここでは認識論に立ち戻ろう。 世界とは何か、世界を認識する自己とは何か。実はこの二つの問いは同時に答えが導き出される。

自己/世界 と区別をするのであれば、そこには「自己と他(世界)とは何か違う」という意識が前提のもとに置かれていることになる。
 だが、注意をしなければならないのは、区別とは一通りのものではないということだ。区別にはいくつかやりかたがある。
 ここでは、形式的区別・実質的区別の二者を呼び出そう。
すると、先ほどの、「自己と世界とは何か違う」の「何か」には、特段の内容は含まれていないのであるから、形式的区別ということになる。形式的区別とは、とりあえず線を引いておく、ということである。

 私たちは、とりあえず形式的区別を引いて生活をする。それはおそらく、自己を守るためであろう。
 自己を守るため、とは、自己が理解不能の領域に達しないようにする、ということである。
 自己が理解不能になってしまったら、人は絶えず精神病に悩まされることになる。もちろんここには医学的な研究が必要不可欠であるが、それにしても私たちは、自己をある程度持っていないと、生きることがむつかしくなるのである。

ということはだ。世界とは違う自己を守るということは、自己には自己なりの世界が成り立っているということだ。言葉を変えて言えば、自己の中には乱気流みたいな世界とは区別された、独特の世界観があるということである。
 この世界観のことをシステムと呼び換えておこう。システムとは、あるまとまりをもった体系、くらいの意味である。

とすると、自己を前提とする限りで、自己/世界 の二つが区別されることになる。その区別とは言えば、自己には自己流のシステムが備わっている、一方で世界は乱気流である、という風にだ。少なくとも、自己は乱気流のようにはなっていない、ということが確認されれば、自己/世界 の区別は達成されたことになる。

では、乱気流ではない自己とは、仮の姿に過ぎないのだろうか? おそらく、そうである。私たちは、主体という見方にはまっている。主体とはかくあらねばならない、主体が明確になってはじめて、世界は整然としたものになる、云々。
 言ってしまえば、自己が本当に乱気流でないのかどうかはどうでもいい。 そもそも、乱気流をどう説明すればいいのだろうか? 本稿の真の問いはそこにある。

A / Aでないもの

と二つに分けるのが論理学の伝統のやり方であるが、これでは例えば

B

という要素を完璧に見失ってしまう。
Aでない、つまり理論的ではないからといって排斥されたものが、実はBという要素によって新たな論理を与えられたら。
Aではないから、という証明があるだけでは、実は何も言ってないに等しいのである。

かなり記述が乱雑になったので、次回まとめよう。

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