![]() |
以下では、ジャック・デリダ「バベルの塔」(『他者の言語』法政大学出版局、1989 所収)を下敷きにして考えられた論文である。
「バベルの塔」は、デリダの文学論として読める。 そこでいう文学の範囲が問題となる。 それは、いちおう結論として、西洋のあらゆるテクストにおける一般理論としてデリダが考えたもの、となるのだが、これはデリダの他の論考との関係や、文学=広くテクスト、という枠を疑うもっと深い研究によって、覆されるかもしれない。
しかし、この「バベルの塔」ではともかく、彼は聖書に出てくるバベルの塔の言及によってはじめる。バベルとは、とりもなおさずBabelという固有名としての意味と、もうひとつ「混乱」という意味を持つという指摘をする。
固有名を翻訳することは不可能である(「本田太郎」という名前は、せいぜい音声を多言語によって置き換えられるぐらいで、その意味を問うことはほとんど不可能である)。 同様に、もともと混乱したものを翻訳することもまた不可能である。翻訳とは、なにかを確定させることなのだから。
そのことからして、まずもってバベルという語を翻訳することは無理に近い。
ところで、バベルの塔を建てたのは誰か。聖書の記述によると、それは神である。しかし、この建てるという意味を、制定するという意味に捉えてはならない。
ここでは、あのテクスト論をめぐる基本テーゼが打ち出される。すなわち、あるテクストを産出する主体が何であれ、テクストの意味を決定付けるのは作者ではないということ。
バベルの聖書における意味が翻訳不可能なのは、とりもなさず、神が作者だからである。ということは、神は、翻訳不可能なバベルを生み出してしまったのだ。
バベル、聖書は、西洋キリスト教社会の、始原である。そこからすべてははじまっている。聖書の記述が、そのまま社会の下敷きになっているといってもいい。
聖書の解釈、およびあらゆるテクストは、そうした世界の始原としての聖書を解釈=翻訳する作業に他ならない。テクストとはある意味、バベル=聖書の翻訳である。
しかしデリダはそこに楔を打ち込む。その始原としてのバベルそのものが、神という作者によって作られたひとつのテクストなのだと。 だから、神はそのテクストの意味を決定付けることに失敗したのであり、そのテクストとしてのバベル=聖書は、彼によって翻訳不可能である。
意味づけられないテクストは、要求する。何を要求するか。「翻訳」を。その場合の翻訳とは、意味を「復元する=返す」ものではないとデリダはいう。では、翻訳するとは、いったいなになのか?
そこには翻訳されるべきものがある。・・・それは、本質的には、伝達したり再現したりすることへと拘束するのではないし、すでに署名ずみの契約の履行へと約束するのでもない。むしろそれは契約の設定へ、協約の誕生へ、言い換えればシュンボロン[割符]の誕生へと拘束するのである。 (「バベルの塔」『他者の言語』34ページ)
テクストは、翻訳を要求する。その意味において、あらゆる作者=翻訳者(そこでは、バベルを建てた神でさえも翻訳者である)は、債務を負うものである。そしてその債務は、意味を返すことではない。ではなにかというと、割符の誕生へ向かうのである。割符とは少し単語が専門的だが、契約の設定へ立ち戻るのである。
この場合の契約とは、双務契約であり、原作(オリジナル、つまり聖書=バベル)と翻訳者との契約である。そして翻訳とは、常に新しく契約を設定することになるのだ。原作と翻訳者との絶えざる契約設定。その意味において、デリダは翻訳という作業が、「原作が成長するもの」「原作は種子」という意義を持つと述べる。
翻訳とは、テクストを翻訳するとは、撒かれた趣旨を育てていくことなのだ。それは限りなく続く。新たな種子を撒くと言うより、常に種子は育てられているのである。
この意味で、西洋社会とは、絶えず翻訳されていく社会、つまり種を成長させる社会に他ならない。文学=テクストは、そのような歴史の流れとの関連抜きには語れない。そして最初にあるのは、いつも意味を決定しそこねたテクストがあったのだ。
ここまで言うと、次のように語れるのではないか。デリダは、文学と歴史の関係を、ある独特な視点によって語っているのではと。
西洋社会においては、あらゆる人は翻訳者であり、文学者である。そうした人は、社会の始原との結びつき(契約)をそれぞれ持つのだ、と。そうして、人々の文学的な営みは、それぞれの契約において撒かれた種を成長させることにあるのだ、と。 文学は、そうした歴史との関係において立ち現れるのである。
そしてここでもう一つ指摘しておかなければならないのが、社会素描である。つまりあらゆる翻訳者であるところの人々は、みなそれぞれ始原との契約関係をもっているのだ。そうした意味では、人々は同じところに根本的な根を持つが、しかし互いにそれぞれの契約設定を行うという風に、なんとも不思議な構成をしているのだ。
この見地からいくと、西洋社会は単なる共同体としては語れないし、完全に別個の個人社会とも言い切れない。そこには屈折した構造が見える。
さて、「バベルの塔」が描写した事柄は、彼の理論において、どこまで範囲を持つのだろうか。
(おしまい)
PR
COMMENT