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 「市民主権」という言葉は、辻村先生が使っている言葉だ。私は辻村先生の書かれた『憲法』のテキストは持っているのだが、「市民主権」が具体的に論じられているのは他の書物で、それは持っていない。

 『憲法』に書かれていることから読み取れる「市民主権」という言葉には、どうも違和感を感じる。
というのは、まず大前提として、「市民主権」の対には国民主権があるのだが、
市民、国民という言葉はそれぞれ、

市民ー市民社会

国民ー国家

という言葉が対応しているのが常である。辻村先生が市民という言葉を使っているからには、市民社会を想定されているのであろう。しかし、国家と市民社会とは必ずしも同一ではないはずだ。

辻村先生が、こともあろうに、憲法(国家を縛る法規)から市民主権の概念を取り出すとは、相当ラディカルな試みだと思う。 というのは、それは国家を否定し、市民社会を積極的に認めていこうとする立場からだ。

 辻村先生の論法に従うと、おそらくそれは、主権を持った市民からなる社会が、見えざる権力たる国家機関――それは人が不在の――が常駐する国家を、凌駕するという思想だと思う。
 とすると、それは市民の理念が、権力構造を作り多くの人を従属せしめる国家というものを、否定していく試みにほかならない。

 しかし、国民主権が、そこまでラディカルな概念だろうか? つまり、国民はいずれ自分自身を否定し、国家を否定し、あらたに市民社会を構想する、言い換えれば憲法は自分自身を破棄することになる条項を持つことができるのだろうか。

 具体的には辻村先生が考えられている、国家と市民社会の関係を知らないとわからないが、私見では国家と市民主権=市民社会は相反するものである。

というのは、市民が主権を持った場合、それを損なうことなく発揮するためには、例えばある機関を作り出してそれに委任するといったようなことは、社会契約を結んで成立する国家の誕生の繰り返しにしかならないはずであり、国家は必ずしも国民主権を保障しない――直接民主主義制度を取らない限りは――ので、それではダメである。
 市民社会とは、歴史的に見れば、国家とは別の形で、理念を持たされたはずだ。

市民社会を作ろうとすれば国家がジャマになるし、国家を作ろうとすれば市民社会がジャマになる。
 だから、およそ国家の制限法規たる憲法から、市民社会の根幹を萌芽する「市民主権」の理念を取り出す辻村先生の読みは、一般的に不可能だと思われる。

 それでも好意的に先生の解釈を肯定しようとすれば、どうなるか。
私は、東浩紀の、国民;住民+市民 の二元論的構成を取る立場を採用する。
この考えは、そもそも国民という概念が、異質な二つの住民と市民という概念を合わせたと解釈する方法である。
 この立場から行くと、国民主権という言葉も、半分は市民主権を意味していることになる。
 残りの半分で、結局間接民主主義制度による、住民(国民)主嫌の制限が説明できる。 つまり、住民(国民)主権とは、政治的美称にすぎないのであり、目指すべき目標であると。 住民主権が十分に発揮されているといえるくらいの、努力が、制度構築によって目指されているのだ、と苦しいが一応の解釈はできる。

こうすれば、国民主権をたかだかあげていても、市民主権の意味と、住民主権の意味と、2つを意味しているという新しい解釈ができる。 辻村先生の解釈は、半面において正しいということになろう。

 以上は、市民社会の範囲と、国家の範囲が理論的に重ならないから、憲法から市民主権の意味を100%読み取るのは不可能であろうと示した。そして、50%読み取る術はあると、示したつもりである。

(終)
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