忍者ブログ
本の感想、雑感、小論考など。 小説、簡単なエッセイはこちらで→「テイタム・オニール」http://ameblo.jp/madofrapunzel2601/
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

@日本での哲学

 私なんかが哲学の道を模索するときは、日本というキーワードを思い浮かべる。日本の哲学というと、人によって様々なものがあるのだろうが、私にとっては以下に述べるような文脈を指す。

 元来、哲学といえば、西洋哲学である。 それは基本的には古代以前からはじまり、ソクラテスプラトンアリストテレスの古代ギリシャ哲学、中世を経て、デカルトスピノザライプニッツといった近代哲学第一世代、カントヘーゲルマルクスの第二世代、ニーチェフロイトウィトゲンシュタインハイデガーフッサールなどなどといった第三世代、という基本的な哲学史観が作りあげられてきた。

 だいたい西洋哲学者の書物を見てみると、その精神は”体系”といった特徴でまとめることができると思う。一つの原理、本質を基礎として打ち立て、そこから個別のものまで詳細を追う、そうした”体系”が西洋哲学の精神には顕著だ。アリストテレス哲学などが代表で、それらはツリー状の構造をもっている。ツリー構造は西洋哲学から端を発している。

 東洋的なものとは、言ってしまえばおばあちゃんの知恵袋的な、それぞれはバラバラのように見えてある有機的なつながりをもっている、リゾーム型の構造をもっている。リゾーム型の構造は、東洋的なものから端を発している。

日本では、仏教がとても影響を及ぼしている、そしてその仏教はといえば、仏教の核心は、リゾーム型なのだ。それはなかなか一つの原理から体型だてて説明することが難しく、時には矛盾に陥っているような状況をもいっしょくたにまとめてしまうので、何世代にもわたって違った説明がなされてきた。にもかかわらず、それらはある何らかのまとまりをもっているのである。

 日本人の心には、日本なりの説明、概念が必要だと思う。 それは西洋哲学から端を発したツリー型の構造では説明しきれないはずだ。

 哲学は、確かに文明比較としての、西洋の思想を掴むという意味において、とても役割を果たしていると思う。

 しかし、自分たちの心、思想、精神を語るためには、また違った形での語り口が必要だと思う。
 というのは、いま、ありふれている文体、語り方は、ほとんど西洋由来だからだ。 文の書き方、主語述語目的語の置き方、考え方は、西洋由来のものが席巻してしまった。
 それらを一度に、もう一度日本由来のものに置きなおそうというのも大仰な話である。

だとすれば、使うのは、道具として使うのは、西洋の語り口(ツリー型)構造で良い。それで、東洋的なものを語るのだ。

 私の考えでは、それをやったことのある人は、日本の伝統的な哲学者といえる、西田幾多郎や九鬼周造だと思う。彼らは、日本に生まれる意味を考えながら、西洋の哲学を学んでいった。両方に優れていたのだ。
 西洋哲学を学んでいるだけでは、日本のことはわからない。同じように、日本由来のものに接しているだけでも、日本のことはわからない。

西田幾多郎や、九鬼周造がやったこと、やりたかったことの意義を再考しつつ、この辺境の地日本において見合った精神思想を語るということをしてみたい。

以上
PR
COMMENT
name
title
text
color   Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
mail
URL
pass
secret
PREV ←  HOME  → NEXT
Copyright (C) 2024 書も、積もりし。 All Rights Reserved.
Photo by 戦場に猫 Template Design by kaie
忍者ブログ [PR]