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法か現実か-ドラマ「最高の離婚」によせて

 ドラマ「最高の離婚」は、二組の夫婦が描く協奏曲である。それは明らかに、人も人間関係もやっかいなものだということを示している。なのに何故、彼らの生はこんなにもきれいなのだろう。濱崎光生(瑛太)は、日本人に典型の、まじめで几帳面で神経質なビジネスマンである。光生と結夏(尾野真千子)との結婚は、ほとんど成り行き上のものだった。東日本大震災後の直後に知り合い、特別といえるかもしれない雰囲気の中で意気投合し、そのまま同棲するようになり、やがて婚姻届を提出した。結婚生活のふたを開けてみれば、それは間違いだらけだったというわけだ。結夏は自由奔放ではつらつとした女性で、普通に考えれば光生のような男性とは合いそうにもない。彼らは離婚した後も(結夏が次の仕事を見つけるまでという条件で)同棲していくのだが、さて、それはなんとも二人が今まで作り上げた、あるいは作られてきた過去の再発見の繰り返しなのである。別に回想という形でなくとも、離婚後の同棲生活は、”二人は結婚していた”という現実の事実の重み、それは時には実感をともわないのだが、明らかにそれを引きずっているのだ--。

 二人が交わす会話のテンポ、さりげない気遣い、距離感。そもそも、カップルになるとは、ペアになるとは、どこまでいっても身体の距離を近くするということ、これである。恋愛の本質は身体の近さなのだ。お互いの身体が近づくと、雰囲気は緊張し、あるいは緩み、心臓の鼓動が変化したりする。どうしてだろうか。そこには科学的な理由だけでは説明しきれない物事が介在する。

 哲学者の鷲田清一の有名な例をここでも引いておこう-。たとえば私たちがなじみの図書館に行くとき、いつも決まった席に別の人が座ったとする。私はその人からちょっと離れたところに座るのだが、なんとなく落ちつかない。これは、私の皮膚感覚が、そのいつもの席にまで伸びてしまい、なんとなくその人と触れ合っているような気分に陥ってしまうからなのだ。図書館の例だけでなくとも、たとえばステッキの先端、これは私たちの手のひらの感覚をそこまで伸ばされていて、モノを知覚する。このように、私たちの身体”感覚”は、この皮膚の内に留まらず、外に自在に伸びたり縮んだりする(勘違いしてはならないのが、皮膚そのものは伸びないということ。そうではなく、皮膚の感覚が伸縮するのだ)。

 さて、少々迂回したが、要するに結夏が光生の腰巻きギブスを巻いてやるためにそっと近づくとき、それに光生が何もためらいをおかないとき、彼らは明らかに通常の人間関係におけるそれよりも”近い”ところにいる。光生の皮膚感覚は結夏を少しも警戒せず、結夏のそれもまた同様なのだ。さらにこの近さは、会話の”呼吸”においてもそうなのである。あうんの呼吸とはよく言ったものだ。要するに、彼らは、結婚を良くも悪くもキッカケとして、とても親密な空間を二人で「共有」し、かれこれ2年もたっているのである。近さを共有すること。光生と結夏のペアはこの共有を今でさえ引きずっている。

 はっきりいってしまおう。離婚届は法的な事実である。そして、法律の力は絶対だが、しかし現実の内容まで変えはしない。そこでは、事実の内容は法律の力に先立っているのだ。むしろ、現実的な事実(車に引かれるのは怖い、不倫されるのはイヤ、一緒に居続けるのは無理)に即して、法的事実(事故を起こしたら刑罰を適用、不倫に対しての慰謝料、離婚理由ありに対する離婚の認め)が採用されることになる。光生と結夏が今でも引きずってる距離の近さ、これは現実的な事実である(そのことを気づけるのは私たち視聴者である)。そして二人は、そのことにまったく気がついていないのだ。しかし離婚届はもうすでに出されてしまっている。

 一方、上原諒(綾野剛)と灯里(真木よう子)との関係は、ゆるく、そしてそれゆえにもろい。この二人は、光生・結夏ペアとは対照的に、一見仲がよさそうだけれども、あのペアのごとくまでの近さはなかなか見せない。このゆるさ・隙間は、二人ともに満たされなさを覚えさせ、灯里はそれを飲み込み、そして諒はどっちつかずの状態にいる。二人をつなぐ唯一のものは(実は提出されていない)婚姻届である。つまり、法的事実、現実的な事実に則しているはずの事実。ところが、諒が届けを出していないことがやがてバレてしまう。この危機はいったん二人の真摯なやり取りで回避されるのだが、今度は現実に即したはずの届けがもう一度出されようとしたところで、ドラマが展開される。

 法と現実。法にすがったはずのカップルと、現実にすがったはずのカップル。ここでは法かも現実かもわからないような、グレーの事実がまさに浮き彫りにされるのだ。彼らは婚姻届たった一枚にとても翻弄されているのだから(婚姻届を出せば夫婦になれるのか、離婚すれば夫婦を離れるのか、夫婦とは何か・・・)。両者は、法、つまり社会と、現実、つまり日常との波乱とそれらにまつわる偶然が織り成す不断のドラマ(劇)に見舞われて、私たちは視聴しながら思わずこう口にせずにはいられない。”なんだこれ、もしかして私たちのこと!?”

(了)

※なお、この文章は加筆・訂正を加えた後、コンクール作品として提出します。
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