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【第三回】『千のプラトー』で思考の戦士になる【仏教から仏教へ】

 仏教の始祖であるゴーダマ・シッダールタは、悟りまでの自身の生活を、考え抜くことに費やした。
仏教がいかに生まれたのか、悟りはどのようにして開けたのかを知るためには、そのことを忘れてはならない。彼は、思考の果てに、完成に近づいたのである。デタラメに思念していたわけではない。

二つ目に、ゴータマ・シッダールタもまた、その時代と場所に強く規定を受けて生まれてきたものだということである。古代インド・小国同士がが乱立し、政治情勢が不安定な中でゴータマは王子として生まれた。理不尽な現実は、彼を悩ませた。
 また、インドは西洋とは違って、より多くの生命直に満ちた環境であった。
現代はまた、独自の空気を持っている。
 ただ漫然と、今仏教の経典をめぐっていても、それだけではみのらない。 現代において、仏教はどのようにして読み直されるべきなのか。
それはとりもなおさず、今という時代性、歴史性を深く考察することにある。

3つめとして、やはり思想は元気が出るものでなければならない。どんなに立派な考え方であっても、それが人に生き生きとした感動やダイナミズムを与えるものでなければ、挫折してしまう。

 以上の3点から、ドゥルーズ(とガタリ)の書物を取り上げるのがよいと判断した。
 まず、ドゥルーズは、(現代という時代にありながら)時には粘りっこく時にはダイナミックに、思考を重ねている哲学者であるという点。それから、現代(特に、資本主義社会、家族や国家に捉われる社会など)を彼が強く意識し、現代を抜け出すために考え抜いているという点である。
 3つめ、これは私たちの課題であるが、ドゥルーズは、本当に人を元気にさせる。確かに彼の思想は難しいところもある。しかし、その根底はいつも、子供のような輝いた心とどこまでも冷静な大人の洞察力に満たされている。

もういいだろう。そういうわけで、迂回な方法をとるわけではない。 現代を生きたドウルーズの思想を活用することで、仏教を現代に甦らせよう。


(以下、ノート形式)

ドゥルーズ 『千のプラトー』 10章 強度になること、動物になること、知覚しえぬものになること…

●『ウィラード』論 pp.269-270

 ここは、第10章の手引きとなっているところである。
・まず最初に、訥々にも「動物への生成変化」というキーワードが語られる。
 人から動物になること、変わることを、なぜドゥルーズは重要視するのだろうか。
 ここでは、次のことが大切である。

「まず、相似を経由することだけでは満たされず、それどころか相似によって妨害され、阻止されるような動物への生成変化。」(pp.269)

 相似は、生成変化とは似ても似つかぬものらしい。ドゥルーズは、『ウィラード』という映画の中にねずみによく似たただの人間という登場人物が出てくることを語るが、「動物のような人間」(相似)は、「人間が動物になること」(生成変化)とは全く別のものだということである。それどころか、「動物のような人間」に捉われることは、生成変化を阻害までする。

・分子状態 ⇔ モル状態
 ねずみの群れが「分子状態」にあたり、脳がすべての器官を統制する(脳支配説)合理的人間は、「モル状」である。これら両者は別である。

「戦争機械」、犯罪機械
 同じものの中にいながら、自己破壊をしてしまう機械。 人間の体内の異物がこれに当たるのではないだろうか。

これらを挙げたうえで、最後は問いかけで終わる。同じ一匹の動物が、二つの運動にとらわれることがあろうか?
 Aは、Aであるとともに、非Aでもある、というけったいなことが言えるのだろうか? 二項対立で物事を整理する西洋論理学への、挑戦である。

(misty)
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