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本の感想、雑感、小論考など。 小説、簡単なエッセイはこちらで→「テイタム・オニール」http://ameblo.jp/madofrapunzel2601/
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 「昼顔」の第二回放送、見ました見ました。

いま、水曜日の「若者たち」と、あとなぜか先週は土曜日にやってた金田一の実写版も見てたのですが笑、

 「若者たち」と「昼顔」では圧倒的に後者かなって思います。

昼顔はうまい。登場人物の心象風景のうつりかわりが面白い。

やはりアクシンデントを引き起こすきっかけになるのはリカコ(吉瀬さん)で、それをさと?分からん笑、上戸彩役がゆるやかに静かに惑わされていく。

でも第二回のあの終わり方は良かった。

第三回は予告の感じだとリカコさんに焦点がいきそうだけど、全体の見どころは上戸彩(そらそうだ、主人公なんだから)なので、あとあとも楽しみ。

 「若者たち」はとてもセリフがうるさい。劇ならいいのだが、あれはドラマ。劇をドラマにもってきましたとかそういうのは要らない。

 白熱ぶりがいいでしょとか言われても、いえ別に…としか言えない(苦笑)
でも第三回はとてもよかったので、まだまだ継続して見れそうです。

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 このブログを更新するのは久しぶりです。

パスワード忘れてなくてよかった←


 昨日、木曜日夜10時からOHKで放送されている「昼顔」、第一話観ました。

まぁ作業しながらですけど。

上戸彩の髪型がかわいいと思った← 笑

 彼女、特別美人でも、それから超絶可愛い、とかではないんですけど、たしかに何か魅力があるんですよね。

 たたずまいが自然体? オッサンが好きそうな人ですよね。ノリがいいし。

若いころは、この子は可愛いイメージでいってた気がするんですよ。
 今は変容期なのでしょう。 そういうところに着目してみるのもあるいは面白いかもしれませんね。


それで、「昼顔」なんですけど、面白かったです。


 語りたいのは、吉瀬みちこ演じる”奥さま”から主人公への、誘惑。

だいたい、この二人は「普通なら」何の接点も持たない、ご近所以外において、という所。

 社会階級――という言葉を敢えて使おう――には、現代にいたっては、ノン・コミュニケーションがある。

 つまり、「あそこの豪邸の○○さんの奥さん、不倫しているらしいわよ。」っていうのは、近所のおばちゃん=大衆 「のみ」で交わされる言説であって、 ふつうはお金持ちの人とお金持ちでない人との付き合いというのは、突然には発生しない。


 そこに今回の「昼顔」の発生点がある。
結びつきえない(もしくはふつうはその結びつきというものを考えにくい)ものが、何かしらの偶然かあるいは必然、つまり「然る」事情によって、関係することがある――。

 このとき、吉瀬みちこ演じる(すみません登場人物の名前をまだ把握しきれてません←)妻から、

不倫や浮気など文字通り「未」知の世界である主人公へ、強引な扉への通路が差しだされる時、

たしかに主人公はそれを端的に拒否する。 しかし、ドラマ=劇 の流れはそういかないのだろう(それは常とう句だから) 。

 つまり、端的に拒否しえないものが心性のなかに潜んでいる――  これを、ドゥルーズの用語を借りて、〈出来事〉の発生、あるいは事件と呼べるのであろう。


 事件がいつ起こったかはさして重要でない、いかにして起こったか――そして展開するか。

 吉瀬が放った、逸脱したものへの扉は、どのように開かれるのか。 




   そんなこんな。     レファレンス; ジル・ドゥルーズ『記号と事件』(インタビュー集)  
***

 昔書いた短い文章ですが、ふと思ったので、再掲。
この頃はたぶんドゥルーズの『批評と臨床』を読み終わって深く影響していて、ドゥルーズの文体・思想ともども多く引きづられています笑

***

溶け合うこと朝吹真理子『きことわ』

 

 物と物との間の区別、あるいは2つの領域の間がどうでもよくなるくらいに曖昧になって、或いはそれらが一つの<場>を形成していく、そのことのカタルシス。たとえば、夢/現実の区別。永遠子の夢は、現実の現実性(レアリテ)そのものに対して強い楔を打ち込み、その夢もまた消去して/されて、2つの領域をどうでもよくさせる。現実にいったい何の力があるというのか(そして夢とは何と強力であるか)。また、この物語は記憶をめぐる系列(セリー)にも関わっている。二人が再会する葉山町の家は完全に時間軸を狂わせる。そこでは断片化された記憶が交互に展開され、狂おしい生を余儀なくさせる。狂気と表裏である美しさ。

 それにしても何と朝吹氏の文章はきれいであることか。彼女の美学としてのエクリチュールが『きことわ』でも全面に展開されている。

(了)

自分は今、アメブロで「たいくつ」という小説を連載しているのですが(http://ameblo.jp/madofrapunzel2601/entry-11444492881.html)、まぁ今回はそのことについて。

 この話は、次穂という主人公、それから姉の亜紀、ともすると友達のさきちゃん、大体この2面もしくは3面関係のお話です。次穂の1人称によって語られるので、彼女からの眺め、彼女からの世界の見え方が問題となります。

どこかで書いた気もするのですが、次穂は過去の想起をしている- 当時の姉はハタチで(ちなみに亜紀と次穂の年齢差は8歳です)、それを今ハタチである次穂が回想する。

 あの時ハタチだった姉は、今自分が抱えているようなことを思っていたのだろうか? 

妹たる次穂は、姉に絶大な信頼・愛着を抱いており、それは年齢差が手伝っているからかもしれませんが、そのことが逆説的に彼女らの距離を絶対的なものとする、ということ。

 いわば、次穂は、回想をすることで、解体をはかろうとしているわけです。
もちろん、回想行為は、よき過去を忍ぶこともあれ、非常にロマンチックなものです。 ただ、あの時彼女が見えていなかったものを、20歳の次穂はそれとなく見つけ出そうとする-。 

 次穂は過去をはからずも再構成していることになります。 過去は過去としてそれ自体があるのではなく、いつも想起されることによって再ー現前化されること。

 彼女が、小説舞台の夏のことを回想するまでは、それは土かぶって、いわば抑圧、忘却の隅へ追いやられていたことになる。
 
 そう、言わずもがな、彼女は回想をすることによって、当時を再び生きている。何重にも。 あの夏は一回きりのものでなく、偽装されながら、何回もやってくる。
 そして、その偽装と繰り返しの中から、何か、秘密めいたものを、隠されていたものを探そうとする。

それが次穂がはからずもやろうとしていることになります。

まぁ、まだ小説は続いていきますし、正直、次穂と亜紀はこれから面白くなる予定です笑

乞うご期待。
この記事は、アメブロ「テイタム・オニール」と、当サイトの接続として書かれました。

(了)
感想文です。

小林康夫『存在のカタストロフィー』

はじめからいうと、最後まで読んでません笑 だから、この前著の『歴史のディコンストラクション』を読んでから、またこの本に戻ることがあれば読むと思います。

今回は感想文というより、小林さんが書かれていた内容で、とても興味深かったところについて語りたいと思います。


良心についての話。
 良心とは、この本によると、もともと「共に―知る」の意味だそうです。  物事のよしあし、という意味は、もっぱら日本が明治近代化の際に、翻訳を適当につけちゃったらしいんですね。

「共に―知る」。 自分が知る、ではない。 それが良心。
 ということは、良心が問われる、とかよくいいますが、本当のその意味は、「共に知る」のは誰か? ということです。

その主体には3つのカテゴリがあると続きます。

1、他者 2、神 3、自己自身

1の他者とは、他人。他人と一緒に何かを知る、それが良心。 事故の現場を見て、多くの人と共に自然の悲惨さを知る。これが1のケースにあてはまります。
2の神は、中世ヨーロッパ的、神と自己自身との統一を図る的なやつだそうです。

そして3番の自分。 この自己自身は、<語りかける私>です。 そして、この<語りかける私>には、<語りかけられる私>が対応しているはずです。 そして、

<語りかける私> = <語りかけられる私>  ⇒ 強力な<私>、主体の発生(登場)

という近代の図式がここで打ち出される、というわけです!

このイコールが、例えばハイデガーなら、「決意」という概念を持ち出してイコール図式を完成させます。

 ここからは、小林さんの主張を私なりにまとめたものです。
 ポスト近代たる現代にあっては、この「共に―知る」の相手を、

anybody(誰でもないけど、誰か)

なのではないか、といいます。 このanybodyには、人間だけでなく、非人間的なシステムや、偶然的な環境なども含みます。 例えば、大震災の辛さと共に、その悲しみを分かち合うこと。 誰とも知らない、しかし誰かと、現実を共有しなければならない、その倫理性。それが現代で問われているのでは。誰かわからない人と共に―生きることが大切なのではないか。

そういうふうにまとまると思います。

私自身は小林さんの、結局はシンプルだけどおくぶかい主張に、肯定します。 anybodyとの共生。 共生という言葉はいろいろ歴史のアカを持っていますが、それでも、現代はそういう倫理が問われているのは確かだと思います。言い換えれば、現代という時代の中で”良心”が問われるのは、大事になるのは、常にそういう状況の下だということ。

面白かったです。

(終わり)
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