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こんにちは。今日は久しぶりに本の感想文です。

その前に、ちょっと整理したいことがあります。

個人の力をどう考えるべきか。これは例えば、人間の集まりである社会がなーんか気に入らないなぁと思っても、なかなか個人の力だけでは社会そのものを変えたりすることは難しい。
 逆に、その人がヒトラーみたいな存在だったら、ユダヤ人を皆殺しにしてしまうような社会にしてしまったわけです。

ナチスの例を出さずとも、私は、人間社会においては、個人の力よりも、関係性自体や、偶然の出来事、環境の影響が、圧倒的に大きいと思います。
 それをどう受け止めるべきなのか。悔しいと思いつつも、我慢するしかないのか。それとも、関係性や環境に何か作用を与えられるような個人の力があるのか。

関係性や環境は、思想界の構造主義で言うところの”構造”にあたると思います。
 表面的な構造主義は、構造が表象的な個人を決定することが多い。
しかし、ポスト構造主義者は、構造だけがすべてじゃない、と言った。

個人の力だけではどうにもならない。しかし、構造オンリーではない。

 そこで私は、構造によい作用を与えるような個人の力、個人の生きる道しるべを、『新幸福論』という論文の中で論述しました。
 単純に構造を否定するのではなく、構造も個人もうまくいくように。

よし、これで整理ができたと思います。

本文です。

***

ブロッホ/『希望の原理 第一巻』まえがき

 ブロッホの『希望の原理』シリーズは今現在、続々と出ています。 オススメです。とっても分かりやすいし、結論から言って、このシリーズはすごそう! 哲学を知らない人でも、結構読めちゃうし感動すると思います。

ブロッホいわく、彼のこの著作は”未来の哲学”と銘打っています。 プラトン、ヘーゲルらの哲学者は、”過去の哲学”といって、ブロッホは彼らを敵視します。 過去の哲学というのは、結局ヘーゲルらは、それまでの(既存の)歴史や経験から諸法則なるものを導き出したり観賞したりしたので、それではこれから起こりうることのための学術には至っていないというのです。

”未来の哲学”は、来るべき時代のために、実践的に使いこなせる理論・含蓄。 来るべきというのはどういうことかというと、ブロッホにとってはまず今という現在が大事。これからの自分、大事な人の身に何が起こっていくか、そしてそれにどう対処していくかに、しっかり目を向けなければならない。そうした前向きな姿勢を作るための学問が、”未来の哲学”です。


 なるほどね。

そこで、具体的に”希望”の原理ということなんですが、人々の心に宿る希望は、原動力となり、社会をさまざまにこれまで動かしてきた。 そういったたくさんの希望の、原理・原則を、そしてこれからの新しい希望を描くことが、ブロッホの『希望の原理』シリーズの大きな目標ということになるらしいです。

希望の以前には、”飢え”という状態があるらしい。そして”希望”となったとき、それは情動だけでなく、人々の行動や意識の方向づけになる、そういった意味合いでの希望。

 希望と対立の関係にあるのが、”恐怖”。 こいつは個人を堕落させ、社会を腐敗させる。 恐怖にいかにうちかち、希望を導き出せるか、これを考えること。

 また、ブロッホのことなので、マルクス関連の話が出てきます。

1つは、先程も言いましたが、大きな枠組みとして、

 敵としてのヘーゲル/味方としてのマルクス

をはっきり宣言しています。 
 補足説明を。 ヘーゲル哲学に新しい解釈を与えたことで知られる現代のコジェーヴという哲学者がいるのですが、コジェーヴの解釈曰く、ヘーゲルは”歴史の終わり”を発見したという。”歴史の終わり”とは、原始社会からはじまって、専制君主国家、そして資本主義の登場、産業資本主義社会、そして社会主義、最後に共産主義というように、社会の時系列を完成させて、共産主義社会で人間の世界は終わりを告げる、と結論づけた。

 こんな解釈に、未来はありません。もうすでに終わりを見ちゃったのですから。ブロッホはこれに抵抗するのでしょう。歴史とは終わるものではない。続くものだと。

 また個人的に面白いと思ったのが、ブロッホは社会主義を端的に概念化していました。 社会主義とは、「具体的なユートピアの実践」(pp.39)だという。 ユートピアというこの言葉についてはブロッホ自身がつづく巻において細かい論述を行っていくといってます。


まえがきがこれだけカッコいいと、本論もとても楽しく読めそうです。 
 最後に、まえがきの最後の言葉を。

「本質とは既存性のことではなく、逆に世界の本質とはみずからの最前線に横たわっているのである。」(pp.41)

(了)
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 初めて読んだのはもう10年も前になろうか、表紙がボロボロになっても、あまり同じ本を読まない私が好んで何回も何回も読む小説である。
 
 大切な人を失った母親が、子供と一緒に、いつかその人に出会えることを信じて、旅がらすのように点々と各地を暮すという、ちょっとずれた話だ。まぎれもなく、登場人物の母親である葉子は、一半の人々の観念とはかけ離れている。
 しかし、江國香織はそうした人々の、全身の生を描く。いくら人が、一度失った人に連絡もなしにぶらぶらするだけで、会えるわけがないと思っていても、彼女はその夢のような一生を本当に送るのだ。
 
 その彼女の夢は、子供の草子の思春期を容赦なく突き刺す。
寄り添っていた親子が、終盤になるにつれて絶妙な緊張感を展開していくのはかたずを飲む思いをさせられる。
 
―これが現実なんだよ?
私の顔を見ずにそういった。
―あたしは現実を生きたいの。ママは現実を生きていない。
私には、何のことだかさっぱりわからなかった。ただ、顔を歪めて泣き出した草子を呆然と見ていた。
―ごめんなさい。
小さな声で、苦しそうに草子は言った。
―なにをあやまるの?

―ママの世界にずっと住んでいてられなくて。
 
(江國香織『神様のボート』、224ページ)
 
 本書は、親の葉子と子の草子の2人の視点から同時に語られる。
夢のような現実を狂おしく生きる人の物語は、文学にあってこそ紡ぎだされるのだ。
 
misty
ピエール・ルジャンドル 『西洋をエンジン・テストする』


 ルジャンドルの講演内容と、補足を合わせたもの。ドグマ人類学の”エッセンス”との帯が付いていたことから買ってしまったが、その内容はルジャンドルの作品に慣れていないと少々たどるのが難しい。

 だから、この著作を読んだ後、『ドグマ人類学総説』の最初らへんの部分を読んで、分かったことがいくつかある。

おぼろげながら記述しておこう。

『エンジン・テスト』で最も重要な事柄の一つは、”第三項”という概念である。第三項とは何か。

それはルジャンドルが説明しているように、間に入る(=inter)、つまり媒介するものである。
ルジャンドルによると、例えば主体(人間としての主体、ということでよかろう)と社会の関係は、二項対立的(人間vs社会)といったものではなく、そのあいだに、主体―国家―社会 という風に間を媒介する概念ないし実体がある。

 interpreciate(解釈する)という語も、また同様である。 ルジャンドルによれば、この第三項=媒介物は、国家の他に、聖書やクルアーンなども含むという。 国家を、聖書やクルアーンといったものと同列に扱うのが、ルジャンドルに特有の思考だといってよかろう。

ここからは私の荒い推測になるが、ルジャンドルが”話す主体=種としての”人間にこだわるのは、

主体 - 言語 - 社会

といった風に、言語からなるもの(それは聖書であり、クルアーンであり、法であり…)は媒介としての働きのもっとも最大のものであるからである。このことから、例えばコミュニケーション社会では人間は言語なしにはなにごともなしえない、とかの帰結が生まれることになる。

 また、彼が「国家」というのも、主に「法的国家」(法治国家、でもよい)に重点を置いていると考えられる。法とはまずは言語なしにはありえず、その意味で言語の産物であり、人間はすべて言語のモンタージュ(組立)による社会を生きているのだ。

本書は難しいが、確かにルジャンドルの”ドグマ人類学”なるものへの扉を開いている。

(終)
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