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 レーモン・クノーの「地下鉄のザジ」を読みはじめた。方言? 最初から俗語的表現のオンパレードで楽しい。

 セリーヌの長編作品のそれは、完成度においても集大成といった形をなしているように個人的には思われるのだが、こういった作家の名前を思い浮かべて行くうちに、日本の作家の中上健次のことが思われた。

 中上健次の小説においては、風景描写などは非常に淡白で少ない言葉で、キリッとさせるような効果があり、文体そのものは非常にドライである。しかし、『枯木灘』などの「路地」シリーズにおいて、物語そのものが、被差別部落といった、一般に想定されている社会状態の人々とは異なる社会の人間関係を展開している。

 台詞の応酬も非常に独特で、紀州の方言に満ちている。そこからは、舞台は日本であるはずなのに、「どこか別の場所での物語」といったような想像性を産む。

 中上健次の小説は、日本という場所や人物、表象を扱いながら、非常に世界的=遍在的なのである。それは、社会が困窮化したときに「現れてくる」、社会状態の必然の姿なのかもしれない。

 セリーヌの幼児期から青年期へと至る自伝的エピソードを交えた「なしくずしの死」でも、主人公の家族が非常に逼迫した家庭環境を巧みに、執拗に描いている。そのため、主人公のなりふりや言動はどんどん荒んでいき、パリの汚い街並みそのもののように、不穏で、猥雑な世界観が形成されていく。 

 社会が非常に困窮・低迷化した状態を描いた、もしくはそういう設定のもとで舞台を演出している小説作品を思い浮かべたら、例えば椎名麟三の「深夜の酒宴」などがそうではないだろうか。戦後の非常に経済や衛生状態が悪い町の、ぼろアパートに住む青年の姿を描いたその作品は、頽廃という一言に尽きている。そういえば差別表現もばんばん出ていた(苦笑)

 「深夜の酒宴」は、社会の不平等といった階級問題への問題意識が間接的に表れているという点では、レーモン・クノーの「地下鉄のザジ」やセリーヌの作品群とは少し違うかもしれない。というのは、後者は、社会階級への問題意識という政治的問題は、直接にはあらわれてこないからである。対して「深夜の酒宴」は、物語の中に、民主主義・共産主義といった、戦後間もなくして非常に日本を湧きあがらせた戦後民主主義による復興への懐疑的眼差しをのぞかせている。椎名麟三の頽廃的ムードは、そうした社会の不平等への批判意識や対抗といったものすらせせら笑い、おとしめてしまうような暗さをたたえている。

 それから、最近の日本の小説においては、西村賢太などがいる。そういう意味では、現代でもなおこの、「社会の不平等状態を間接・直接に描く文学作品」は古今東西を通して普遍的に存在し、さらにそこからの「不穏さ、猥雑さ、世間から外れたという頽廃的意識における描写」というものも、あるように思われてくる。

 それは、もしかしたら「不良文学」とでも呼べるものなのかもしれない。

 なお、不良文学を語るにあたって、昨今の日本の政治状況にひとこと付け加えずにはいられないと筆者は思った。自由民主党は長らくネオリベ的な、経済第一主義の政策をとっているが、そうしたネオリベラルな政策をとってる限りは、社会の不平等は絶対的に構成・維持されていくのである。だから、経済が仮に上向きになって、国家にお金が集まるようになっても、肝心の国民の側に大きな亀裂・分断線が走っていく。政府や国家は大きくなるかもしれないが、社会階級というマルクスが提出した問題がいつまでもゾンビのようにつきまとわり、国家としてはそこが統一の妨げになっていくのだと思われる。

 それが続く限り、不良文学はずっと不良のままでいるであろう。不良はスターでもないし、望まれるべくして生まれた存在でもない。しかし、文学では不良を語れるだけの実に広範な、最大限に大きな自由がある。そうした文学が不良を実在的に構成していく限り、全体政治への警告以上のものが営まれていくであろう。
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