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 現代とは、どんな時代であるのか。

仏教観は、この問いに一つの形を与えてくれる。

曰く、どんなものや時代でも、ハッキリとした枠を持つものではない。

近代やポストモダンの定義や素描に四苦八苦している現代哲学や社会学は、このことを端的に忘れている。
 ならば、こう定義すればよい。
現代もまた、何らかの、流れる、移行期であると。

近代とは、いわば<セカイ系>の世界である。
 そこには、①自律した個人主体と、②それから導き出される理性の共和国、がある。
しかし、逆を言えば、その二つしか導き出せないのだ。

ならば、こうは言えないだろうか。
 近代とは、個人の自由を求め、ただひらすらにそのことを悩み葛藤し、そうした個人の主体性が、即セカイとつながるような価値観である、と。

 もちろん、これは窮極の形式に過ぎない。主体を完成させた個人が世界と現につながるなど、これまで見たこともないし、これからも起こることはありえまい。
 しかし、近代とは、間違いなく上のようなことをその本質において有しているのだ。

 近代をこう捉えると、現代というのが、どんな本質を有しているのかも、考えやすくなる。

即ち、
 個人が今も自身の主体性を求めて悩んでいる過程の中で、

”また同じように悩み苦しんでいる隣人の存在にハタと気付き始めた”時代ではなかろうか。

気付いたのだ、世界は決して、自分だけで完結しているものではなかったのだ、と。
 自分さえ救われば、すべてが解決するようなシロモノでもなかった、ということに。

隣には、いつも、同じように苦しんでいる隣人がいた。
垂直の価値観の中に、水平線が出来上がったのだ。

 今度は、その水平線の中で、それでも自己に何ができるか、それを考え実践していく。

 筆者は、「原発ゼロ」の声が時間とともに今や半数を超え始めているのを見て、そういうことを実感した。

ポスト・モダンは、他者とともに自分がどう在るかを考えていく、そういう時代である。

(終)
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