忍者ブログ
本の感想、雑感、小論考など。 小説、簡単なエッセイはこちらで→「テイタム・オニール」http://ameblo.jp/madofrapunzel2601/
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

感想文です。

小林康夫『存在のカタストロフィー』

はじめからいうと、最後まで読んでません笑 だから、この前著の『歴史のディコンストラクション』を読んでから、またこの本に戻ることがあれば読むと思います。

今回は感想文というより、小林さんが書かれていた内容で、とても興味深かったところについて語りたいと思います。


良心についての話。
 良心とは、この本によると、もともと「共に―知る」の意味だそうです。  物事のよしあし、という意味は、もっぱら日本が明治近代化の際に、翻訳を適当につけちゃったらしいんですね。

「共に―知る」。 自分が知る、ではない。 それが良心。
 ということは、良心が問われる、とかよくいいますが、本当のその意味は、「共に知る」のは誰か? ということです。

その主体には3つのカテゴリがあると続きます。

1、他者 2、神 3、自己自身

1の他者とは、他人。他人と一緒に何かを知る、それが良心。 事故の現場を見て、多くの人と共に自然の悲惨さを知る。これが1のケースにあてはまります。
2の神は、中世ヨーロッパ的、神と自己自身との統一を図る的なやつだそうです。

そして3番の自分。 この自己自身は、<語りかける私>です。 そして、この<語りかける私>には、<語りかけられる私>が対応しているはずです。 そして、

<語りかける私> = <語りかけられる私>  ⇒ 強力な<私>、主体の発生(登場)

という近代の図式がここで打ち出される、というわけです!

このイコールが、例えばハイデガーなら、「決意」という概念を持ち出してイコール図式を完成させます。

 ここからは、小林さんの主張を私なりにまとめたものです。
 ポスト近代たる現代にあっては、この「共に―知る」の相手を、

anybody(誰でもないけど、誰か)

なのではないか、といいます。 このanybodyには、人間だけでなく、非人間的なシステムや、偶然的な環境なども含みます。 例えば、大震災の辛さと共に、その悲しみを分かち合うこと。 誰とも知らない、しかし誰かと、現実を共有しなければならない、その倫理性。それが現代で問われているのでは。誰かわからない人と共に―生きることが大切なのではないか。

そういうふうにまとまると思います。

私自身は小林さんの、結局はシンプルだけどおくぶかい主張に、肯定します。 anybodyとの共生。 共生という言葉はいろいろ歴史のアカを持っていますが、それでも、現代はそういう倫理が問われているのは確かだと思います。言い換えれば、現代という時代の中で”良心”が問われるのは、大事になるのは、常にそういう状況の下だということ。

面白かったです。

(終わり)
PR
COMMENT
name
title
text
color   Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
mail
URL
pass
secret
PREV ←  HOME  → NEXT
Copyright (C) 2024 書も、積もりし。 All Rights Reserved.
Photo by 戦場に猫 Template Design by kaie
忍者ブログ [PR]