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こんにちは。以下の文章は、私の大学のゼミの卒業文集(と称した同人誌w)に提出した記事です。というものの、ここで連載していた『もののけ姫』に関する論考シリーズの、いちおうの完結です。A4で1~2枚との指定があったので、頑張ってまとめてみました。

さて。今回は、『もののけ姫』のメッセージを探すことに焦点がありました。
 そこでは、人間と自然との(とメター宇宙との)ゆるやかな共生、それから人間による管理社会化のわからなさ、を導き出しました。

私の大きな関心事は、”資本主義と森”にあります。つまり、『もののけ姫』でいうところのタタラ場、社会というよりも、もっとピンポイントに資本主義社会というコトです。 資本主義には何かアヤしいものがある。森の世界になじまないところがある。もっと掘り下げていきたい。
 従って、例えばドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』とかもいっかいこのブログで丁寧に読解するかもしれません。


***

『もののけ姫』哲学的解題―ゆるやかな共生、管理社会

*もののけ姫のあらすじ
 冒頭で、祟り神の退治の際に深い傷を負ったアシタカは、その傷の治癒と祟り神の発生の謎を解明すべく旅に出る。そこで、エボシ率いる、鉄砲生産を主とするタタラ場にたどりつく。タタラ場では人間と森の動物たちとの深い対立が浮き彫りになっていた。一方でアシタカは、犬の神に育てられた少女サンに出会う。そしてサンの看護でアシタカは森の精霊・シシ神と邂逅する。エボシが帝の命を受け、そのシシ神の力でさえをももぎ取ろうとして、場面は進んでいく。
 
象徴的な場面から話をはじめよう。首が取れたディダラボッチがありとあらゆる破壊活動を行進させる中、人間たるアシタカと人間と森の動物の媒介者的地位を持つサンとが、共同して首を返上するシーン。すべての結論はそこから導き出される。そう、シシ神=ディダラボッチとは気まぐれの神なのだ。神は気まぐれとは誰がといったものだったか。
 シシ神は生殺与奪の権能を有し、ディダラボッチは森を徘徊する。ここまではよい。しかし、首が取れた瞬間の、あの恐るべき姿。あらゆるものを巻き込み、下し、破壊する神。もし、本質的にシシ神=ディダラボッチが破壊神の要素も持ち合わせているのだとするならば。ところで、シシ神は一つで世界足りうる、しかも我々の言う意味合いとは異なる次元において。シシ神があるときは生命を与え、ある時は生命を奪い、あるときは〈クビナキディダラボッチ〉として破壊の洪水を引き起こす。シシ神の意味論を考えるのではなく、機能として彼は自らひとつの世界の存在と権限をいっきょに引き受けると考えると、シシ神はひとつのメタ―宇宙と同列になる。
 エボシ率いるタタラ場の人間と社会のイメージ像はごくありふれたものである。すなわち、彼らは1、自己自身による統治=管理可能性を前提とした世界を維持しているのである。のみならず、2、その自己の世界の範囲の拡大をも活動目的に含み入れている。これが他の世界(宇宙)とは違う箇所である。エボシは不幸な女性たちを積極的に受け入れ、タタラ場の安全と発展を願っている。
 さて、一方で、自然たる森の世界も、ひとつの立派な自律した宇宙である。動物たちには動物たちなりの世界構成があり、そこではさまざまな生命体がひしめきあうようにして森という一つの素晴らしいうなりを形成している。おっとこぬしの例などを見ると分かるが、ここではシシ神は動物たちとの関係においても“天使(良き神)”の存在となっているということである。動物たちは一方的に秘蹟を願うのみであり、応答可能性は一切ない。というか、例えば負った傷を癒してもらおうとしても、反対に生命を奪われるかもしれないというリスクを追っている。それにもかかわらずシシ神は森の中で絶対的な存在であり続けるのである。それは、人間たちとシシ神との関係性においてもそうである。とにかくシシ神は“気まぐれの神”であり、生命の審判者たるシシ神のメタ―宇宙は、社会や自然よりも次元が一つ上である。さて、これでわかるように、『もののけ姫』で描かれているのは人間対自然という単純な対立などではないのである。少なくとも『もののけ姫』のプレートは3つの宇宙から成り立っており、そこをうまく理解しないと先に進めない。
 どういうことか。例えば、『もののけ姫』では描かれていなくとも、社会と自然とに相互影響関係が存在するのは当たり前である。例えば、タタラ場で鉄砲の生産のために大量に発生する煙は、森の樹木に悪影響を与えるだろうし、単純に勝手に自己破壊するプログラムを持つ植生に対して人間が手を入れてそれを活性化させることなどが古来からある。反対に自然から社会への影響はどうか。太陽の光、雨、光合成による酸素の提供、あるいは大災害や地震など。基本的に、自然に対する人間の影響よりも、逆の方が影響の質が大きい。この点において、社会よりも自然の方が尊いとする自然主義にも一理あることはうなずけよう[1]。この二つの宇宙が相互影響関係から浸透関係へ進むのは、第三項たるシシ神の宇宙を挿入した時である。シシ神は人間にも動物にも、“気まぐれの神”として振舞う。動物はそれでよしとするが、人間はそれでは満足しない。だから、人間が森を攻撃して森の略奪を目論むように、まさかシシ神を奪うことまで血迷ってしまうのだ。
 しかし、物語の最後でシシ神は最悪の〈クビナキディダラボッチ〉と変化する。この存在には、動物はおろか人間はなすすべもない。そこに、アシタカとサンとの共同行為の意味があるのである。サンは、人間はやはり嫌いだと言って山に戻るが、アシタカはおちあう関係でいようと提案し、サンもうなずく。サンがタタラ場の住人になじむことはほとんど考えられないかもしれない。しかし、〈クビナキディダラボッチ〉は最終的に、二人の共同行為によって、破壊活動を終えて姿をくらましたのである。ラストシーンだけでは、実はシシ神が消滅したのかどうかは解らないのだ。残されたのはボロボロになった人間と、母なる大地=自然である。解釈としては、アシタカとサンのように、三面関係から残された人間と動物とが、〈クビナキディダラボッチ〉のような悪魔が二度と出現せぬようゆるやかな共生を構築していくこと、これがまずある。神は存在しているのかしていないのかも分からない、しかし例えばエボシのような森への政策を中断することも大事であろう。さらにそして、人間の自己統治=管理の拡大もその限界も、まったく解答放置なのである。
 『もののけ姫』は優れて現代的な作品である。そして最後に付言すれば、この3つの宇宙それぞれにはどの宇宙の要素も含まれていて、管理可能性/不可能性の問題も天使や悪魔の出現の出来事も全てそこに含まれている、と私は思うのだ。
(了)


[1] しかし、だからといって、人間の有する、高い自己統治=管理能力と、自己拡大目的性を軽んじてはならないだろう。人間が構成要素である社会はやはり一つの自律した宇宙なのである。

 
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