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おはようございます。 最近更新多くてすみませんw 書けるうちに書いときたいなと・・・。 作家さんの中ではスランプに入ると全然かけなくなるとかも聞くし。
でも今回は書くんじゃなくて、僕の論文の紹介です笑 冒頭部分を以下に紹介します。
それから、この次の記事には「あとがき」を載せます。
最初から言うと、この論文の目的は、個人がなぜ生きるのか、なんのために生きるのか、という問に対して、答えを探っていくというものです。ちなみに答えはあります。入試問題的にそれを100字でまとめよとか言われるとげんなりするけど、精読すればわかるようになっています。ちなみに文章は意図的に難解にしてあります。文章形式の実験です。
それで、もしこの紹介を見て、続きから最後まで読みたいーて方おられましたら、コメント欄にその旨どうぞ。Wordかpdfファイルでフリーアドレスで送ります(´>ω∂`)てへぺろ☆ A4の26枚です。
じゃあ紹介いきます。
***
幸福論――実存主義の新たな形式について
非―目的と非―方法
生きる目的とは何か。
あの、晴れやかではつらつとした瞬間、瞬間にして永遠、はつらつとしていて無限の心地よさ、それらを何度も味わうために、そのために人は生きているに違いない。その目的は、分かっていてもまたそうしてしまうのだ。また、極限の悦び――そう名付けよう――を味わう方法はいくつかあり、人間においては徹底して不可視的である。不可視的方法、まさに非―方法と呼びうるしかない。方法という方法なくして、しかし時にはあっという間に、時には思いがけずして、私たちは極限の悦びを手にしている。手にしているというより、思わず手に入っている。何と恩寵という概念と近似していることか。
目的を手にするための方法など存在しない。いわば、非―方法だけがある。方法と目的は人が同時に設定するものである。非―方法には非―目的が対応している。極限の悦びは非―目的である。それは獲得されるべくしてされるものではない。生を線形化して考えてみよう。私たちは線を沿って生きている。直進の線、傾斜する線、だ円を描く線。しかしその中には、方法という方法を受けつけないある特異点が存在する。それが極限の悦びだ。同じやり方をたどっても獲得されるとは限らない。決して方法化されえない、説明することを受けつけないある飛翔。そうして特異点にたどりつくことができる。しかし長くそこにとどまることは許されない。一瞬である。その一瞬のうちに無限が含まれる。無限とは一瞬なのだ。前と後ろには、日常での時間の流れ方がある。それらは無限ではない、厳密な意味において。極限の悦びを感じる一瞬が、そうした時間を無限ではないものとして、すなわち有限として分かつ。こうして見ると、時間とは一瞬時間と有限時間の二種類があることが分かる。一瞬時間(瞬間)とは、時間の感覚が引き伸ばされた状態である。有限時間は、見かけ上は一瞬時間に従属しているといえそうである。すなわち、極限の悦びを味わう一瞬のために、他の有限時間は使われるといった具合である。しかしそれは厳密には間違っている。というのは、新たな論点となるのは、一瞬時間と有限時間は性質を異にする(全く別の)ものなのか、それとも一瞬時間とは有限時間の中から生まれたものなのであろうかということである。むしろ時間とは〈一つ〉なのではないか。もともとは〈一つ〉だったものが、何羅かの契機、すなわち人間が「生きる」という重々しい宣言の下に、極限の悦びを味わう一瞬の時間と、それ以外の時間という風に間違って区分けされてしまっているのだろうか。こうしてみると、一瞬時間と有限時間の区別は偽装のものであることが分かる。
***
ここまでです。 続きが読みたいという方はコメントでおねがいしますね☆彡
でも今回は書くんじゃなくて、僕の論文の紹介です笑 冒頭部分を以下に紹介します。
それから、この次の記事には「あとがき」を載せます。
最初から言うと、この論文の目的は、個人がなぜ生きるのか、なんのために生きるのか、という問に対して、答えを探っていくというものです。ちなみに答えはあります。入試問題的にそれを100字でまとめよとか言われるとげんなりするけど、精読すればわかるようになっています。ちなみに文章は意図的に難解にしてあります。文章形式の実験です。
それで、もしこの紹介を見て、続きから最後まで読みたいーて方おられましたら、コメント欄にその旨どうぞ。Wordかpdfファイルでフリーアドレスで送ります(´>ω∂`)てへぺろ☆ A4の26枚です。
じゃあ紹介いきます。
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幸福論――実存主義の新たな形式について
非―目的と非―方法
生きる目的とは何か。
あの、晴れやかではつらつとした瞬間、瞬間にして永遠、はつらつとしていて無限の心地よさ、それらを何度も味わうために、そのために人は生きているに違いない。その目的は、分かっていてもまたそうしてしまうのだ。また、極限の悦び――そう名付けよう――を味わう方法はいくつかあり、人間においては徹底して不可視的である。不可視的方法、まさに非―方法と呼びうるしかない。方法という方法なくして、しかし時にはあっという間に、時には思いがけずして、私たちは極限の悦びを手にしている。手にしているというより、思わず手に入っている。何と恩寵という概念と近似していることか。
目的を手にするための方法など存在しない。いわば、非―方法だけがある。方法と目的は人が同時に設定するものである。非―方法には非―目的が対応している。極限の悦びは非―目的である。それは獲得されるべくしてされるものではない。生を線形化して考えてみよう。私たちは線を沿って生きている。直進の線、傾斜する線、だ円を描く線。しかしその中には、方法という方法を受けつけないある特異点が存在する。それが極限の悦びだ。同じやり方をたどっても獲得されるとは限らない。決して方法化されえない、説明することを受けつけないある飛翔。そうして特異点にたどりつくことができる。しかし長くそこにとどまることは許されない。一瞬である。その一瞬のうちに無限が含まれる。無限とは一瞬なのだ。前と後ろには、日常での時間の流れ方がある。それらは無限ではない、厳密な意味において。極限の悦びを感じる一瞬が、そうした時間を無限ではないものとして、すなわち有限として分かつ。こうして見ると、時間とは一瞬時間と有限時間の二種類があることが分かる。一瞬時間(瞬間)とは、時間の感覚が引き伸ばされた状態である。有限時間は、見かけ上は一瞬時間に従属しているといえそうである。すなわち、極限の悦びを味わう一瞬のために、他の有限時間は使われるといった具合である。しかしそれは厳密には間違っている。というのは、新たな論点となるのは、一瞬時間と有限時間は性質を異にする(全く別の)ものなのか、それとも一瞬時間とは有限時間の中から生まれたものなのであろうかということである。むしろ時間とは〈一つ〉なのではないか。もともとは〈一つ〉だったものが、何羅かの契機、すなわち人間が「生きる」という重々しい宣言の下に、極限の悦びを味わう一瞬の時間と、それ以外の時間という風に間違って区分けされてしまっているのだろうか。こうしてみると、一瞬時間と有限時間の区別は偽装のものであることが分かる。
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ここまでです。 続きが読みたいという方はコメントでおねがいしますね☆彡
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