同一性保持権の基礎理由―ときめきメモリアル事件判決を題材にして 要約
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著作権法20条1項 著作者は、その著作物及びその題号の同一性を保持する権利を有し、その意に反してこれらの変更、切除その他の改変を受けないものである。
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1、前提
20条1項の立法目的…著作権法の目的は文化の発展(第1条)に集約せられるから、現著作物から派生して二次著作物が流通するマーケット・文化においては、同一性保持権規定は制限法規である。であるから、この法規が著作権法に組み込まれている意味は、一方で著作者の精神的・経済的なモノを守り、一方でその保護があまりに強力すぎて文化発展を阻害することのないよう、バランス調整を考慮されたものなのである。
2、同一性保持権の本質論
それではそもそも何故同一性保持権のような権利を著作権法は認めているのか。これには、哲学的・社会学的考察が欠かせない。本稿では以下それらを論述していく。
まず、(原)著作者は著作物(作品)を表現する。ここで著作者の特に精神的な部分と、著作物すなわち作品との関係性が問われることになる。
ときめきメモリアル事件判決(以下、ときメモ事件等と記す)は、原告たる恋愛シュミレーションゲームを開発した企業が、そのシュミレーションゲームの内容を大きく改変してプレイすることのできるソフトを別に開発しだした企業Yを訴えたものである。最高裁では、XのYに対する同一性保持権の侵害が肯定された。つまり、Yが改変ソフトを開発したことによって、Xの同一性保持権が損なわれたというのである。
ここでは最高裁の判決理由の解釈は詳述しない。しかし本論は全く別の角度から考察を加えて新たに異なった結論を提示するものである。つまり、同一性保持権とは人格権の一種であるから、Xは人格の何かを損なわれたというのであるが、そもそも著作物を公表するにあたって原著作者の精神が損なわれる構成とはどのようなものが考えられるか。一つは、著作物が別の人に悪用されて経済的ダメージをうけることである。経済的損失は自らの創作のインセンティヴを失わしめるという意味合いで、精神を損なう。もう一つは、別の人に悪用されたことなどによって著作者の社会的立場が減じられそれが精神のダメージにつながるというものである。この内、1番目の選択肢に対しては、以下の批判が可能であろう。すなわち、結局社会を経済至上主義とのみ捉えることによって、経済的余裕があれば作品(著作物)も生まれるという既存の芸術体制の再生産でしかない。権利の本質論には至っていないのである。例えばときメモ事件では、むしろ改変ソフトと同時に本体のシュミレーションゲームを買うケースが多くなるのであり、経済的効果は上昇するとも考えられるので、その点ですら同一性保持権侵害の肯定理由にならない。だとすると残された選択肢は後者の方であるが、諸品を背景においた著作者の社会的立場とは一体何であろうか?
3、ドゥルーズ
ここで、哲学者ドゥルーズの個体(=作品)概念と、ロラン・バルト=デリダ的個体概念の2つを導入する。
ドゥルーズの個体概念を、内容と形式の二つからなる二元的構成物と捉える。そしてドクルーズは主著『差異と反復』において、“諸々の出来事は少しずつ差異を伴った反復”であることを細やかに論証していく。私の解釈では、ドゥルーズは個体の内容はより反復的なものであって、差異を伴うのはむしろ形式においてなのであるのではないかということだ。形式とはダンボール箱やブラックボックスのようなものであり、内容とは箱の中に入っているモノである。ドゥルーズの「個体(差異)の発生」の概念を著作物の創作の概念に適用すると、以下のそれが導き出される。著作物は内容と形式から成り立っており、真の創作は専ら形式性にのみかかわるものである。ドゥルーズの個体とは形式性のことであり、新たな形式性が生まれるとそれが差異となり、鮮やかな個体が生まれる。わかりやすく言うと、それまでダンボールの中にしか入っていなかった花束が、もっと細長くて品の良いケースの中に入れられたとき、それは新しい個体となる[1]。
補っておかなければならないのは、内容の変更、つまり内容への創作は、真の創作ではないということである。内容は、著作権法の世界(文化の発展のたゆまない歴史)に広く開かれているべきなのだ。英米法で言うところのフェア・ユース規定の概念も、この箇所にリンクしていると考えられる。少なくとも、作品(著作物)における内容性については、著作者たる一者=個人の専制支配には委ねられてはならないのである。それはあまりにも著作者保護を強力なものにし、著作権法の世界を阻害させることになってしまう。
具体的には、ときメモ事件判決ではどうなのか。恋愛シュミレーションゲームの内容性とは、主人公たる男子学生が一人の女子学生を決めてゲーム内で恋愛を成就する、ということになる。そして形式性については、あくまでハード・ソフトでのプレイを必要とする恋愛シュミレーションゲーム、ということになる。本作品の創作性は、実は恋愛的な出来事をシュミレーションゲームという形式においてできること、これである。このことからすると、少しパラメーターをいじくっただけの改変著作物=ソフトは、内容に手を出したものであり、その内容とは万人に開かれるべきであるから、少なくとも原著作者の人格保護の適用範囲に含まれるものではないのである。
もっと率直に言うと、本質的に、著作者(人)と著作物(作品)の関係とは、そのモノの形式性のみにおいてまるで親子のような愛情的な関係なのである。所有に法的に擬制をすることは可能であるが、それは内容性においては少しもそうでない。内容(歴史、文化)と個人とは所有・支配の関係ではないのだ。
4、ロラン・バルト=デリダ的視点
議論にメリハリをつけるために、別の哲学者、ロラン・バルトとデリダに登場願おう。特にロラン・バルトは、“テクスト”の概念を積極的に提示した。テキスト(作品)はテクスト(様々に解釈されるもの)になるべきであり、テクストは無数なのである。そこでは、ひとつの著作物(作品)からは無数の解釈行為が可能なのであって、そのたびごとに違う内容が生まれる。ロラン・バルト=デリダは、先ほどのドゥルーズとはちがって、内容性に個体の概念の発生を見るのである。例えばAという内容が先行するとしたら、そこから無数にB、C、D…と脱構築などの方法によって合法的な読み返がなされていく。そしてその解釈者は自分の所有権をもとにそれらB、C、D…を表現していくだろう。
しかし、内容に個体性=差異性を見ることは、結論からいって誤りである。先程も言ったとおり、内容は個人個人がバラバラに所有=専制支配するものではない。結局、それらは形式性において全く同一であり、文化は一つも発展していないのである。これは著作権法の世界にも望ましくない。のみならず、勝手にB、C、D…と解釈され表現されていくことに対して、Aを表現されたものは社会的な立場において精神を損なうだろう。結局ロラン・バルト=デリダ的解釈は、同一性保持権の論点を考える際には、あまりにも(原)著作権者の保護を強力にしすぎるのである。
5、結論
以上によって、同一性保持権の基礎理由が結論づけられた。著作物の同一性は、その形式性において同じであるか異なるのかを判断するべきなのである。内容で判断するのは文化の発展という著作権法の立法目的からも誤っている。著作権者と著作物との関係は形式性を媒介する親子のような擬似所有関係である。ときメモ事件では、改変ソフトは内容の差異であり、形式においては同一であるので、同一性保持権の侵害を結論において否定すべきであったのである。
☆主要参考文献
・ジル・ドゥルーズ『差異と反復』(河合書房新社、1992)
・ジル・ドゥルーズ=フェリックス・ガタリ『千のプラトー』(河合書房新社、1994)
・ジャック・デリダ『他者の言語』(法政大学出版局、1989)
・斎藤慶典『デリダ―なぜ「脱‐構築」は正義なのか』(日本放送出版協会、2006)
・ロラン・バルト『零度のエクリチュール』(みすず書房、2008)
・中山信弘・大渕哲也・小泉直樹・田村善之編『著作権判例百選』(有斐閣、2009)
・中山信弘『著作権法』(有斐閣、
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著作権法20条1項 著作者は、その著作物及びその題号の同一性を保持する権利を有し、その意に反してこれらの変更、切除その他の改変を受けないものである。
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1、前提
20条1項の立法目的…著作権法の目的は文化の発展(第1条)に集約せられるから、現著作物から派生して二次著作物が流通するマーケット・文化においては、同一性保持権規定は制限法規である。であるから、この法規が著作権法に組み込まれている意味は、一方で著作者の精神的・経済的なモノを守り、一方でその保護があまりに強力すぎて文化発展を阻害することのないよう、バランス調整を考慮されたものなのである。
2、同一性保持権の本質論
それではそもそも何故同一性保持権のような権利を著作権法は認めているのか。これには、哲学的・社会学的考察が欠かせない。本稿では以下それらを論述していく。
まず、(原)著作者は著作物(作品)を表現する。ここで著作者の特に精神的な部分と、著作物すなわち作品との関係性が問われることになる。
ときめきメモリアル事件判決(以下、ときメモ事件等と記す)は、原告たる恋愛シュミレーションゲームを開発した企業が、そのシュミレーションゲームの内容を大きく改変してプレイすることのできるソフトを別に開発しだした企業Yを訴えたものである。最高裁では、XのYに対する同一性保持権の侵害が肯定された。つまり、Yが改変ソフトを開発したことによって、Xの同一性保持権が損なわれたというのである。
ここでは最高裁の判決理由の解釈は詳述しない。しかし本論は全く別の角度から考察を加えて新たに異なった結論を提示するものである。つまり、同一性保持権とは人格権の一種であるから、Xは人格の何かを損なわれたというのであるが、そもそも著作物を公表するにあたって原著作者の精神が損なわれる構成とはどのようなものが考えられるか。一つは、著作物が別の人に悪用されて経済的ダメージをうけることである。経済的損失は自らの創作のインセンティヴを失わしめるという意味合いで、精神を損なう。もう一つは、別の人に悪用されたことなどによって著作者の社会的立場が減じられそれが精神のダメージにつながるというものである。この内、1番目の選択肢に対しては、以下の批判が可能であろう。すなわち、結局社会を経済至上主義とのみ捉えることによって、経済的余裕があれば作品(著作物)も生まれるという既存の芸術体制の再生産でしかない。権利の本質論には至っていないのである。例えばときメモ事件では、むしろ改変ソフトと同時に本体のシュミレーションゲームを買うケースが多くなるのであり、経済的効果は上昇するとも考えられるので、その点ですら同一性保持権侵害の肯定理由にならない。だとすると残された選択肢は後者の方であるが、諸品を背景においた著作者の社会的立場とは一体何であろうか?
3、ドゥルーズ
ここで、哲学者ドゥルーズの個体(=作品)概念と、ロラン・バルト=デリダ的個体概念の2つを導入する。
ドゥルーズの個体概念を、内容と形式の二つからなる二元的構成物と捉える。そしてドクルーズは主著『差異と反復』において、“諸々の出来事は少しずつ差異を伴った反復”であることを細やかに論証していく。私の解釈では、ドゥルーズは個体の内容はより反復的なものであって、差異を伴うのはむしろ形式においてなのであるのではないかということだ。形式とはダンボール箱やブラックボックスのようなものであり、内容とは箱の中に入っているモノである。ドゥルーズの「個体(差異)の発生」の概念を著作物の創作の概念に適用すると、以下のそれが導き出される。著作物は内容と形式から成り立っており、真の創作は専ら形式性にのみかかわるものである。ドゥルーズの個体とは形式性のことであり、新たな形式性が生まれるとそれが差異となり、鮮やかな個体が生まれる。わかりやすく言うと、それまでダンボールの中にしか入っていなかった花束が、もっと細長くて品の良いケースの中に入れられたとき、それは新しい個体となる[1]。
補っておかなければならないのは、内容の変更、つまり内容への創作は、真の創作ではないということである。内容は、著作権法の世界(文化の発展のたゆまない歴史)に広く開かれているべきなのだ。英米法で言うところのフェア・ユース規定の概念も、この箇所にリンクしていると考えられる。少なくとも、作品(著作物)における内容性については、著作者たる一者=個人の専制支配には委ねられてはならないのである。それはあまりにも著作者保護を強力なものにし、著作権法の世界を阻害させることになってしまう。
具体的には、ときメモ事件判決ではどうなのか。恋愛シュミレーションゲームの内容性とは、主人公たる男子学生が一人の女子学生を決めてゲーム内で恋愛を成就する、ということになる。そして形式性については、あくまでハード・ソフトでのプレイを必要とする恋愛シュミレーションゲーム、ということになる。本作品の創作性は、実は恋愛的な出来事をシュミレーションゲームという形式においてできること、これである。このことからすると、少しパラメーターをいじくっただけの改変著作物=ソフトは、内容に手を出したものであり、その内容とは万人に開かれるべきであるから、少なくとも原著作者の人格保護の適用範囲に含まれるものではないのである。
もっと率直に言うと、本質的に、著作者(人)と著作物(作品)の関係とは、そのモノの形式性のみにおいてまるで親子のような愛情的な関係なのである。所有に法的に擬制をすることは可能であるが、それは内容性においては少しもそうでない。内容(歴史、文化)と個人とは所有・支配の関係ではないのだ。
4、ロラン・バルト=デリダ的視点
議論にメリハリをつけるために、別の哲学者、ロラン・バルトとデリダに登場願おう。特にロラン・バルトは、“テクスト”の概念を積極的に提示した。テキスト(作品)はテクスト(様々に解釈されるもの)になるべきであり、テクストは無数なのである。そこでは、ひとつの著作物(作品)からは無数の解釈行為が可能なのであって、そのたびごとに違う内容が生まれる。ロラン・バルト=デリダは、先ほどのドゥルーズとはちがって、内容性に個体の概念の発生を見るのである。例えばAという内容が先行するとしたら、そこから無数にB、C、D…と脱構築などの方法によって合法的な読み返がなされていく。そしてその解釈者は自分の所有権をもとにそれらB、C、D…を表現していくだろう。
しかし、内容に個体性=差異性を見ることは、結論からいって誤りである。先程も言ったとおり、内容は個人個人がバラバラに所有=専制支配するものではない。結局、それらは形式性において全く同一であり、文化は一つも発展していないのである。これは著作権法の世界にも望ましくない。のみならず、勝手にB、C、D…と解釈され表現されていくことに対して、Aを表現されたものは社会的な立場において精神を損なうだろう。結局ロラン・バルト=デリダ的解釈は、同一性保持権の論点を考える際には、あまりにも(原)著作権者の保護を強力にしすぎるのである。
5、結論
以上によって、同一性保持権の基礎理由が結論づけられた。著作物の同一性は、その形式性において同じであるか異なるのかを判断するべきなのである。内容で判断するのは文化の発展という著作権法の立法目的からも誤っている。著作権者と著作物との関係は形式性を媒介する親子のような擬似所有関係である。ときメモ事件では、改変ソフトは内容の差異であり、形式においては同一であるので、同一性保持権の侵害を結論において否定すべきであったのである。
☆主要参考文献
・ジル・ドゥルーズ『差異と反復』(河合書房新社、1992)
・ジル・ドゥルーズ=フェリックス・ガタリ『千のプラトー』(河合書房新社、1994)
・ジャック・デリダ『他者の言語』(法政大学出版局、1989)
・斎藤慶典『デリダ―なぜ「脱‐構築」は正義なのか』(日本放送出版協会、2006)
・ロラン・バルト『零度のエクリチュール』(みすず書房、2008)
・中山信弘・大渕哲也・小泉直樹・田村善之編『著作権判例百選』(有斐閣、2009)
・中山信弘『著作権法』(有斐閣、
[1] ここから、ドゥルーズが描いた“多様性の世界”を説明することができる。著作権法の世界とは、何よりもまず諸々の形式性のリゾームなのである。そこではありとあらゆる内容が、異なる形式を伴って、ありとあらゆる方向に表現されていく。内容の嵐、洪水。ドゥルーズは、現代の二次著作物があふれる様を、実に60年も前から的確に予言していた。
P.S. 以上は、僕が著作権法を哲学的に考察した論文の要旨です。オリジナル/コピー問題の僕なりの本質論なので、知財法に詳しい方も、哲学に詳しい方も、読んでみてください☆彡
P.S. 以上は、僕が著作権法を哲学的に考察した論文の要旨です。オリジナル/コピー問題の僕なりの本質論なので、知財法に詳しい方も、哲学に詳しい方も、読んでみてください☆彡
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