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ちょっとお久しぶりです。
@フーコーの抵抗論だけではなぜだめか
佐藤嘉幸の『権力と抵抗』を読んでいる。 アマゾンでもこの本に対する評価は高く、また僕自身、とてもまとまっていると感じる。
そこで今日は、第一章「場所論Ⅰ」(pp23-52)を下に、フーコーの抵抗論の限界を論じていこうと思う。
フーコーの権力論は、カント哲学に由来を発している。
カントは、自我(主体、私)を二つの審級に分けていることになる。
まず、客観的な自己としての、経験的審級。 それから、そうした経験的審級を監視、反省することのできる、超越論的審級。
超越論的自我
↓支配
経験的自我
という構造が主体の本質にあるというわけだ。ここでは主体は二つに分裂しているのみならず、超越論的自我が肥大化しているといえる。
フーコーはむろんこうしたカント哲学を痛烈に批判し、そこからの脱却を試みる。それをいかに示そう。
フーコーはまず、経験的自我が多様性を有するということに着目する。それだけではない。この、多数のなかにある経験的自我の領域は、そのまま、社会野における、権力関係の闘争の領域、場であるのだ。
どういうことかというと、さまざまな経験的自我が産出し、お互いに闘争を繰り広げることによって、その一帰結として、それら複数を従えるあの超越論的審級が誕生するにすぎない。
権力関係における闘争においては、闘争の過程が重要であってその結果はあまり重要でない。というか、闘争の結果として、何とか主体という構築物ができあがる。 もっぱら闘争の結果として主体は立ち現れるわけだ。ここにポスト構造主義の兆候を見て取ることは可能であろう。
これがフーコーによる近代哲学の脱構築である。 しかし同書において佐藤はフーコーの限界(アポリア)をも続けざまに論ずる。
フーコーの定義に従えば、権力とは力の諸関係の多様体(『性の歴史Ⅰ:知への意志』)である。ここで抵抗とは、権力の裏返しの事柄である。すなわち、権力関係の戦略的フィールドの中に、抵抗(の可能性)も、内在的に書き込まれているというわけだ。
しかしである。 フーコーの『監獄の誕生』では、どういうことが書かれてあったかというと、
例えばパノプティコンは、自分自身が服従化の原理となること、この作動だったのである。
つまりどういうことかというと、ここでも主体は超越論的審級と経験的審級の二つに分裂し、監視の目はパノプティコン装置の作動によって、そのまま自我(分裂された主体)に内面化し、その役割を超越論的審級があずかって、<監視される私>、すなわち経験的自我を規律=支配するのである。
ここでは主体は文字通り空虚な形式、すなわち権力の備給の対象でしかない。 権力は上から下へと流れるのみであり、抵抗の可能性はないのである。
『監獄の誕生』に抵抗の可能性はない。これは、考えるに、いくら経験的自我の領域が多数性、複数による闘争の場所であったとしても、当の超越論的審級の場は単数性でしかない、だから抵抗をしようにもひっくりかえらない、このことなのではなかろうか。
『知への意志』では権力関係の闘争性をポジティヴに描いたかに見せても、それは経験的審級の場においてでしかありえず、結局それらを支配し監視する超越論的審級の場がたった一つであること。 これが、抵抗が不可能ではないか、と、フーコーの権力/抵抗理論に対してなしえる痛烈な批判である。
こうなったことの理由としては、一つは『監獄の誕生』だけではフーコーは権力・抵抗理論は完成なしえなかったということであろう。それが後の性の歴史シリーズにおいて、かくも主体にかかわる異なる視点からの探求をすすめたのであろう。
同書では、こうしてフーコーの抵抗論の弱点を確認したあと、ドゥルーズ=ガタリの抵抗論を検討することになっている。
(終わり)
@フーコーの抵抗論だけではなぜだめか
佐藤嘉幸の『権力と抵抗』を読んでいる。 アマゾンでもこの本に対する評価は高く、また僕自身、とてもまとまっていると感じる。
そこで今日は、第一章「場所論Ⅰ」(pp23-52)を下に、フーコーの抵抗論の限界を論じていこうと思う。
フーコーの権力論は、カント哲学に由来を発している。
カントは、自我(主体、私)を二つの審級に分けていることになる。
まず、客観的な自己としての、経験的審級。 それから、そうした経験的審級を監視、反省することのできる、超越論的審級。
超越論的自我
↓支配
経験的自我
という構造が主体の本質にあるというわけだ。ここでは主体は二つに分裂しているのみならず、超越論的自我が肥大化しているといえる。
フーコーはむろんこうしたカント哲学を痛烈に批判し、そこからの脱却を試みる。それをいかに示そう。
フーコーはまず、経験的自我が多様性を有するということに着目する。それだけではない。この、多数のなかにある経験的自我の領域は、そのまま、社会野における、権力関係の闘争の領域、場であるのだ。
どういうことかというと、さまざまな経験的自我が産出し、お互いに闘争を繰り広げることによって、その一帰結として、それら複数を従えるあの超越論的審級が誕生するにすぎない。
権力関係における闘争においては、闘争の過程が重要であってその結果はあまり重要でない。というか、闘争の結果として、何とか主体という構築物ができあがる。 もっぱら闘争の結果として主体は立ち現れるわけだ。ここにポスト構造主義の兆候を見て取ることは可能であろう。
これがフーコーによる近代哲学の脱構築である。 しかし同書において佐藤はフーコーの限界(アポリア)をも続けざまに論ずる。
フーコーの定義に従えば、権力とは力の諸関係の多様体(『性の歴史Ⅰ:知への意志』)である。ここで抵抗とは、権力の裏返しの事柄である。すなわち、権力関係の戦略的フィールドの中に、抵抗(の可能性)も、内在的に書き込まれているというわけだ。
しかしである。 フーコーの『監獄の誕生』では、どういうことが書かれてあったかというと、
例えばパノプティコンは、自分自身が服従化の原理となること、この作動だったのである。
つまりどういうことかというと、ここでも主体は超越論的審級と経験的審級の二つに分裂し、監視の目はパノプティコン装置の作動によって、そのまま自我(分裂された主体)に内面化し、その役割を超越論的審級があずかって、<監視される私>、すなわち経験的自我を規律=支配するのである。
ここでは主体は文字通り空虚な形式、すなわち権力の備給の対象でしかない。 権力は上から下へと流れるのみであり、抵抗の可能性はないのである。
『監獄の誕生』に抵抗の可能性はない。これは、考えるに、いくら経験的自我の領域が多数性、複数による闘争の場所であったとしても、当の超越論的審級の場は単数性でしかない、だから抵抗をしようにもひっくりかえらない、このことなのではなかろうか。
『知への意志』では権力関係の闘争性をポジティヴに描いたかに見せても、それは経験的審級の場においてでしかありえず、結局それらを支配し監視する超越論的審級の場がたった一つであること。 これが、抵抗が不可能ではないか、と、フーコーの権力/抵抗理論に対してなしえる痛烈な批判である。
こうなったことの理由としては、一つは『監獄の誕生』だけではフーコーは権力・抵抗理論は完成なしえなかったということであろう。それが後の性の歴史シリーズにおいて、かくも主体にかかわる異なる視点からの探求をすすめたのであろう。
同書では、こうしてフーコーの抵抗論の弱点を確認したあと、ドゥルーズ=ガタリの抵抗論を検討することになっている。
(終わり)
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