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これから、資本主義体制が抱える、私が「労働ー消費の相互蓄積性」と呼ぶ問題の一面を指摘して取り上げようと思う。
後述するように、この問題は、理解するのに難しくないにもかかわらず、従来の学問ではあまり取り上げられなかった視点である。
ここにこそ、資本主義体制をめぐる問題の鍵が眠っているであろう。
さて、どうも人は労働-消費体制(働いて、あるいは働かせて、遊ぶ、あるいは遊ばされる制度のこと)に縛られている気がする。そこでここでいう「縛り」には、2種類のものがある。
(1) (個人にとっての)体制が決定される(労働時間が8時間と決まる、あるいは新たな職場先が決まる)ことによって、それを社会的安定のメルクマークとみなすこと。つまり、それを基軸として、労働者の生(この言葉が硬いと思われれば、簡単に「人生」でもよい)が考えられていくということ。 賃金がこれだけだから、送る生活水準は大体これくらいになりそうだ、6時まで働くから飲んだり遊んだりするのは夜7時以降の3時間くらいになりそうだ、等々。
(2)労働時間以外の時間は逆に、私は消費者だ-あるいは何者でもない受動的市民だーとして振舞うこと。受動的市民とは、法や管理体制にとって不可視の一般大衆としての彼らの存在のことである。善良な市民は、それとして社会に浮上することがない。さて、ここには労働(ー消費)体制に対するある種の反作用が働いていると考えられる。つまり、自らの意思もあると擬制されて時間労働契約を取り交わし、その時間以外では他の領域の労働ー消費空間に、もちろん金銭を有するものとして参入すること。
人は働き、そのあとまた遊び、そしてまた働く、これを繰り返すから当たり前だといってよいかもしれない。さらに労働したことで対価たる金銭を得るのだから、人は当然に(近代的)自由人=市場空間に参入する人として振舞うのだ、と指摘する向きもあろう。
しかし私は、労働ー消費の相互蓄積性というものを重視する。相互蓄積とは、自分が労働者となったり消費者となったりするのをずっと繰り返す、そしてその経験を頭脳によって蓄積している、という意味である。この相互蓄積性はしかし圧倒的に重要である。一度でも労働の側に入ったことのある人は、善良な(純粋な)消費者として振舞うことはないといってよい。なぜならその消費者は過去の自分の労働者性を比較に持ち出したり、持ち出さずとも経験的=反復的に思い出したりして、その消費行動に望んでいるのである。分かりやすい例がモンスターカスタマーであろう。
彼らの例は、もちろん他の社会領域の問題ともかかわっているが、間違いなくこの労働ー資本体制が直接的に抱え込んでいる問題の一つである。彼らの存在は直接にそのような社会から生み出されている。
労働体制じしんが、人を労働者として準固定し、そしてその労働時間が解けると、反作用として<アンチー労働>の向きに向かわせるのだということー。
(アンチーワークを狭義に捉えてはならない。 労働に対する<抵抗>(この抵抗という言葉もまた注意が必要である)は、主として消費によってなされる。
たとえば、浪費は労働に対する抵抗の一つである。決められたマネーと商品の関係を破壊し、それを過剰なものとすることによって自ら快楽を得る。この小論ではアンチワーク(労働に対する抵抗)の概念を掘り下げて記述することはできないので、話を労働ー消費の相互蓄積性がいかに人を縛り付けるか、という点に絞ろう。)
人は、自分が過去に労使空間で受けた経験や感情を、今度は自分が消費者の立場に立って、別の新たな領域で意識的にか無意識的にか投射し、比較項とし、自分は王となる。
消費者は、実は隠れた労働者であり、その行動ははじめからねじれていること。このねじれこそは、労働ー資本体制の「縛り」の後者の機能である。
静態的な民法理論では、一回きりの債権者(消費者)ー債務者(労働者)という契約関係を論ずる。これを純粋消費者、あるいは純粋労働者と呼ぼう。 この純粋理論では、時間軸が設定されていない。そこでこの図式に時間軸を導入し、消費者と労働者に過去を持たせると、図式はたちまち複雑になる。
消費者は、隠れた労働者であるのだから、なおさらいっそう債権者として、つまり貨幣を持つものとして強く振舞う=振舞えるのである。 労働者はますます弱くなる。ここには二重の従属関係、というより反比例的に広がる労働者と消費者の格差が存在する。
話は跳躍するが、もし消費者と労働者がやはり構造上の力の差異により区別され、対立するなら、そして消費者は一回きりの立場であり、相互に消費者としての地位と労働者としての地位が繰り返され蓄積して以降ものなら、まさに万人の万人に対する闘争関係が再び現代によみがえる。この闘争は複雑である。
(以上)
後述するように、この問題は、理解するのに難しくないにもかかわらず、従来の学問ではあまり取り上げられなかった視点である。
ここにこそ、資本主義体制をめぐる問題の鍵が眠っているであろう。
さて、どうも人は労働-消費体制(働いて、あるいは働かせて、遊ぶ、あるいは遊ばされる制度のこと)に縛られている気がする。そこでここでいう「縛り」には、2種類のものがある。
(1) (個人にとっての)体制が決定される(労働時間が8時間と決まる、あるいは新たな職場先が決まる)ことによって、それを社会的安定のメルクマークとみなすこと。つまり、それを基軸として、労働者の生(この言葉が硬いと思われれば、簡単に「人生」でもよい)が考えられていくということ。 賃金がこれだけだから、送る生活水準は大体これくらいになりそうだ、6時まで働くから飲んだり遊んだりするのは夜7時以降の3時間くらいになりそうだ、等々。
(2)労働時間以外の時間は逆に、私は消費者だ-あるいは何者でもない受動的市民だーとして振舞うこと。受動的市民とは、法や管理体制にとって不可視の一般大衆としての彼らの存在のことである。善良な市民は、それとして社会に浮上することがない。さて、ここには労働(ー消費)体制に対するある種の反作用が働いていると考えられる。つまり、自らの意思もあると擬制されて時間労働契約を取り交わし、その時間以外では他の領域の労働ー消費空間に、もちろん金銭を有するものとして参入すること。
人は働き、そのあとまた遊び、そしてまた働く、これを繰り返すから当たり前だといってよいかもしれない。さらに労働したことで対価たる金銭を得るのだから、人は当然に(近代的)自由人=市場空間に参入する人として振舞うのだ、と指摘する向きもあろう。
しかし私は、労働ー消費の相互蓄積性というものを重視する。相互蓄積とは、自分が労働者となったり消費者となったりするのをずっと繰り返す、そしてその経験を頭脳によって蓄積している、という意味である。この相互蓄積性はしかし圧倒的に重要である。一度でも労働の側に入ったことのある人は、善良な(純粋な)消費者として振舞うことはないといってよい。なぜならその消費者は過去の自分の労働者性を比較に持ち出したり、持ち出さずとも経験的=反復的に思い出したりして、その消費行動に望んでいるのである。分かりやすい例がモンスターカスタマーであろう。
彼らの例は、もちろん他の社会領域の問題ともかかわっているが、間違いなくこの労働ー資本体制が直接的に抱え込んでいる問題の一つである。彼らの存在は直接にそのような社会から生み出されている。
労働体制じしんが、人を労働者として準固定し、そしてその労働時間が解けると、反作用として<アンチー労働>の向きに向かわせるのだということー。
(アンチーワークを狭義に捉えてはならない。 労働に対する<抵抗>(この抵抗という言葉もまた注意が必要である)は、主として消費によってなされる。
たとえば、浪費は労働に対する抵抗の一つである。決められたマネーと商品の関係を破壊し、それを過剰なものとすることによって自ら快楽を得る。この小論ではアンチワーク(労働に対する抵抗)の概念を掘り下げて記述することはできないので、話を労働ー消費の相互蓄積性がいかに人を縛り付けるか、という点に絞ろう。)
人は、自分が過去に労使空間で受けた経験や感情を、今度は自分が消費者の立場に立って、別の新たな領域で意識的にか無意識的にか投射し、比較項とし、自分は王となる。
消費者は、実は隠れた労働者であり、その行動ははじめからねじれていること。このねじれこそは、労働ー資本体制の「縛り」の後者の機能である。
静態的な民法理論では、一回きりの債権者(消費者)ー債務者(労働者)という契約関係を論ずる。これを純粋消費者、あるいは純粋労働者と呼ぼう。 この純粋理論では、時間軸が設定されていない。そこでこの図式に時間軸を導入し、消費者と労働者に過去を持たせると、図式はたちまち複雑になる。
消費者は、隠れた労働者であるのだから、なおさらいっそう債権者として、つまり貨幣を持つものとして強く振舞う=振舞えるのである。 労働者はますます弱くなる。ここには二重の従属関係、というより反比例的に広がる労働者と消費者の格差が存在する。
話は跳躍するが、もし消費者と労働者がやはり構造上の力の差異により区別され、対立するなら、そして消費者は一回きりの立場であり、相互に消費者としての地位と労働者としての地位が繰り返され蓄積して以降ものなら、まさに万人の万人に対する闘争関係が再び現代によみがえる。この闘争は複雑である。
(以上)
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