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数的に、あるいは量的に、女性は社会構成員の約半数いるからといって、女性の提起する問題がメジャー(多数的)であるというのはとんだ勘違いである。

 まずだいいちに、数的・量的な変数を実体化したものがパワーの指標になるわけではない。なるほど、数の優勢は確かにひとつのパワーの指標足りうる。 しかし、現実に生産手段を持つ1人の資本家と、99人の生産手段を持たない労働者とでは比較が異なる。 1人の専制君主と999人の被制圧者とではパワーの構成が違う。
 これは<数の誤り>とでも呼ぶべき現象である。 実は、数的量は、質的量に劣る。
パワーの構成としては、まず質的・構造適量が優勢を占める。その上で、数的量が問題となってくる。

 伝統的な図式の下で、男性が優位で、女性が劣位であるという構造的な質がある。 だから、半数の男性と半数の女性では、なお力関係はハッキリしているわけだ。
 1人の男性と、99人の女性でも怪しいかもしれない。
私が2番目に提起する問題とは、99人の男性と1人の女性という図式が問題となってくるような場面である。


2番目の問題としての、マイナー/メジャーをめぐる問題。 この二項対立は、いっけん、対立の様式ではない。たとえば、小説市場において、圧倒的に人気を誇るミステリー・エンターテイメント小説の市場と、純文学の市場は、メジャー/マイナーの関係に立つ(純文学は大衆人気を誇るようなものではそもそもない)が、互いが互いを直接的に抑圧、あるいは支配するものではない。 

 ただ、私の考えでは、このメジャーもしくはマジョリティは、サイレント・マジョリティとして、いわば直接的には支配主体とはならないのだが、間接的にそのような立場を占めてしまう主体のことを言う。
 サイレント・マジョリティの問題はやっかいである。それらは、当人の主観からすれば、「善意」(法学的意味でない)、「無垢な気持ち」で、たとえばミステリー・エンターテイメント小説などがもてはやされたりする。

 彼らに直接的責任を求めることはできない。メジャー市場としてのミステリ・エンタメを楽しむ消費者にとっては、それらの存在は純粋に面白いからである。
 しかし、そのことが、たとえば市場の論理において、よく売れるから、さらに規模を増やそう、そのためには純文学の市場空間を減らしてまでも、という第三者の介入が入ってくる。
 しかしこのことで、純文学の市場は確実に(数をも)減らされることになる。 内容が面白い/面白くないということではなく、”市場の論理”というもっぱら外部的な要因によって、純文学は数的にも、それから質的にも(売れないから規模を小さくする)劣位におかれることになる。

 厄介な派生効果として、どこからともなく、純文学はつまらないからもともと売れないのだ、という声が生産されるようになる。これがいかに間違っていようとも、質的に・そしてさらに数的に劣位構造にますます置かれる純文学は、それに反抗する声をもてなくなってしまう。

反対に、市場を味方につけたミステリーエンタメは、自らの存在をますます広げていくようになる。

 上下構造、優劣構造はこのように飛躍的に悪循環に陥る。 市場がこれに加担しているということを指摘するのは重要である。


さて、話を戻せば、たとえばフェミニストたちは、もう質的にマイナーである。なぜなら、もともと劣位に置かれているものたちの声であるのだから。 見方になる男性も少なく、さらには男性/女性という問題ではなく社会構造という一番やっかいな敵がフェミニストたちに立ちはだかってくる。 それが、フェミニズムをよしとしない女性たちからの反発の声もあがってくると、数的にまで、フェミニストたちは劣位に置かれることになる。


マイナーとしてのフェミニズムあるいはフェミニスト。
 ひとつは、この考えにより、敵がはっきりすること。真の敵はメジャーではなく、メジャー/マイナーのこの図式・優劣構造を規定する作用主体、こいつであるということ。
 もうひとつは、マイナーの戦い方。なぜなら、戦い方を間違えれば、またしてもこの悲惨な登場人物は、誤解に巻き込まれることになるからである(アファーマティヴアクションの弊害、さらにはヘーゲル的弁証法による包摂化)。


さて、私がこの記事を書いたのは、1980年代に書かれた江原由美子氏の『ジェンダーと権力作用』の前書きを読んでいたときのこと。 江原氏は、もうすでにこの時期において、アイデンティティ・トラブルとしてのフェミニズム、つまり女性なる私とは誰か? をめぐる問題・戦いは、一見休息したように見えると、半ば不安感に駆り立てながら記していたことである。

 フェミニズム史を考慮すれば、フェミニストたちはいくつもの異なる次元の戦い・問題に次々と巻き込まれていったことがわかる。もうそれだけでも事態は複雑であり、このことがいかにプログレマティークな事柄なのかを示唆している。

 80年代から30年間が過ぎ去った。 90年代に『生き延びさせろ!』を叙述した雨宮処凛氏は、貧困問題のみならず、若者、戦争、介護、それから女性の問題と、さまざまな社会問題に対して実践的に活動している。
 雨宮氏は今年の5月号である『現代思想 特集=自殺論』において、貧困と介護と女性の問題は深いところでリンクしているという素晴らしい対談を行っている。  80年代の江原氏の不安感は気まぐれなものではなかった。それどころか、30年たって、事態はよくなるどころか新しい問題を次々と生み出しているのである。

『不惑のフェミニズム』の上野千鶴子氏が語るように、20世紀後半の最大の思想は(構造主義と共に)フェミニズムであったといってよい。 フェミニズムは、フェミニズムそれ自体が弱者の立場に置かれるという事を現時的に何度も記述しつつ発展するという、ひじょうにこみいった学である。

 私がマイナー研究として、主としては広く抵抗の問題系として、フェミニズムを扱ってよいかどうかにも議論を呼ぶところはあるであろう。 

 若者。貧困。労働者。芸術。介護。戦争。そして、フェミニズム。

それらをマイナー研究として、そこからの脱却を図るとともに社会に強烈な揺さぶりをかけること。

(了)
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