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主体から”ヴィークル”概念へ


 主体とは何かと言われたら、図式的に言えばそれは中心とまったく同義である。中心的な視座、というより視座の中心、動作の中心、といったほうがいいのか。

視座の中心、思考の中心として、たしかに私たちは振舞うことができる。法的主体は、そういう風にして働かないとまずい(「私はAという原告でもありません、私はAという行為をしていません・・・」とばかり飛び交う法廷世界になったらたちまち司法は安定性を奪われるだろう)。

しかし私は、この中心さを、放棄してしまえばいいと考える。

その理由は、こういうことになる。すなわち、主体、中心的な視座・動作とは、やはりそれ自体自明のものではない。いわば、私たちは、自分の中心を占めていて当たり前、なぜなら自分は自分だからだ(所有権の擬制)という考え方が、どれほど似つかわしくないかは、ポストモダン思想があれほど共有しているものだからである。私もそのひとりである。

 言い換えれば、主体という概念もまた一つの生産物なのである。
おそらく、自己に主体性を与えることで、自己が自身の名において作動を起こす・・・。 これが近代社会における個人の在り方である。
 そのあり方は今ひどく揺れ動いている。

主体を否定してしまえばよい。 私は私の中心になど立てるものではない。
 主体を徹底的に否定するのではなく、例えば、主体的にもなりうる、ただしそれはあくまで効果としてのことだ、としてしまえばよい。 これを主体効果と呼ぼう。 主体効果を認めれば、主体化は相対的な位置に降り、生のあり方についての重要メルクマークから外れる。

では、この私とは何か。

 私は、ドゥルーズが熱弁した、情動という概念を採用してみたい。もっとも、私自身がまだ勉強が追いついていなくて、この情動というものの外延、内在的な平面をまだ把握してはいない。

 しかし例えば、この私には、無意識や、感情がどっと押し寄せることがある。これは、私が積極的に担うというより、外からやってくる感じだ。 その意味では、感情や無意識を受ける私は、そうしたものに対する受け皿に過ぎない。

 受け皿に過ぎないのだが、それらを受けたとたん、また別の新しい行動を産出する。この点に、ドゥルーズは積極性を認めたのではなかろうか。

無意識や感情は、哲学の世界では見過ごされていた部分だが、私はある理由によって、これらの方にこそ、今後の人間の生のありかたを導いていく、大きな鍵があると考えている。

理性や責任を中心に据える 主体的な私から、
情動の受け皿としての、 ヴィークル(乗り物)―機械。

このヴィークル(ー機械)という概念を提案する。 ヴィークルもまた機械の一部分である。

ヴィークルは決して、荷物を目的地に運ぶ、といった手段性には従属しない。 ヴィークルには目的性がない。
ヴィークルは情動を運びつつ、他の機械部分と接続して、無意識や感情の波を作り、波及させる。
ヴィークルは理性や責任をすり抜ける。あるいは、それらから逃走する。

ヴィークルには中心的な視座というものがない。それはいつも脱中心的である。

ヴィークルには、脱中心的な社会が対応するのだろうか。

(了)
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