昨日はフェミニズムに関する記事を書いたわけだけど、
私は私なりのある直観で、フェミニズム研究をすることが、この2010年代にあっても、世界的に重要だと思っている。
とはいっても、本棚にあるジェンダー学やフェミニズムは従来の方法でやり尽くされていて、残りを補完していくことに意義はあるだろうが、それは現時的インパクトを欠く。
私としては、哲学とフェミニズム思想・理論・運動を結びつけたい。とくに、マイナー哲学(ドゥルーズ、スピノザ、ヒューム、、)を深く分析し、あるいは展開することにより。
ここでひとつの難題が発生する。 マイナーの括りとすることに問題はないのかと?
たしかにマイナー研究と称することで、一定の社会の上位ー下位、もしくは抑圧―被抑圧構造としての図式をあてはめ、マイナーとしての戦いを考察することは可能である。
しかし、マイナーをマイナーとして自覚することの問題はまた別問題である。マイナーを自覚することはいつも困難を伴う。
私も、社会の色々な面で、当事者として、幾つかのマイナーたる存在を引き受けてきた、今も引き受け続けている、という自認がある。
そこに共闘をはっていくこと、あるいは共闘をはっていかなくても、「共に苦しんでいるよね!」とお互い呼応できること―。
これが何より大切である。
こうした困難を打ち明けていかなければならない、しかも研究対象はしばしば自分の支配してきたものとされる女性についての学であるから、そう一筋縄では行かないと思う。
だから私のフェミニズムに対する大まかな態度は、
男性が女性を支配・抑圧するという社会構造が社会を規定している
という点を大前提とする。 そして私はあくまで観察者の視点にたちつつ、最終的には既存の社会構造を敵とし、それを打ち砕き新たな世界を細かく描写しさらにそれを作り上げる実践をも、目指す。
既存の社会構造が敵だというのは、フーコーが非常に明らかにしてくれたきがする。
あとはそれを僕の中できちんと言葉にするだけである。
フーコーから先の問題は、まさに手探りで始めなければならない。
ゆえに、私はその手探りとして、まずフェミニズムを選択する。
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