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@呼びかけ、呼びかけられ―乃木坂46「君の名は希望」の考察1
なぜ“君の名は希望”、あるいは端的に君が希望ということになるのだろうか。ここでは希望の起源、発生を大きく問うてよかろう。ある意味で、詩作者が用意した「僕」と「君」の物語は分かりやすい仕掛けになっている。(恋愛の)プロセスを時間軸をおいて図式的に描いているからだ。簡単にまとめれば、①「僕」は「君」に呼びかけられる(発見される)、②君を再度見つける、③君へ向かう(恋をする)、という前半の模様がある。
1について。ここでは、何と言っても、他者たる「君」から呼びかけがあって、それを受け取る「僕」の呼びかけられがあって、「僕」が「呼びかけられる僕」という差異化した自己を見出すという点が肝要である。まるで自己の存在性は、そうしたプロセスにおいてのみ浮上するかのように。ここでは関係性は存在に先立つという関係主義のテーゼというよりも、存在の定立は自己―他者間における呼びかけ―呼びかけられの相互行為のプロセスの中で初めてなされるものだと考えるべきであろう。①は要するに、自己の再定立という側面を持っているのだ。自己の再定立、新しい自分(の存在性)。“こんなに誰かを恋しくなる/自分がいたなんて/想像もできなかったこと”という字句のように、恋の素晴らしさは何よりもまず差異化する自分(恋に落ちていなかった自分が恋に落ちている)という現象への気づきとして描かれるのは、そのような意味合いを持つ。恋愛とは何よりも自分にリフレクト=反射してくる。この時、注意しておかなければならないのは、(i)自己が自己の存在性に気づいてやれること、そして(ii)その発端となったのは、他者(「君」)の呼びかけであった、ということである。
2について。自己の最定立がなされることにより、呼びかけー呼びかけられの関係性はひとまず消去する。そのとき、「僕」は、呼びかける存在としてでない、純粋な「君」をふたたび発見する。だが、実際、この呼びかけー呼びかけられ、の関係性(ないしは構造性)は本当に消去されるのだろうか。答えは否である。いわば、この関係=構造は亡霊となって再び現れるであろう。しかし、自己の再定立は少なくともかつて「呼びかけ」た「君」に十分対峙するほどの存在性を自己にもたらす。この次元において、「僕」は初めて「君」という他者と同じ地平に立つことができる。
3について。いよいよ、「僕」は「君」に関係性を構築しようとする。しかし、このプロセスは作品中では必ずしも明確に描かれていない。恋と恋愛を区別するものは他者(相手)からの行為であるが、作品中では僕は片思いの気持ちをふくらませているに留まるだけのようにも見える。それでは、恋をすることの気持ちは何だろうか。これは思うに、「僕」は「君」に、かつて自分がそうされたように、今度は自分が「呼びかけ」をはかり、相手の存在の定立を導いているのではなかろうか。③は、「僕」の「君」への一方向性によって規定される。このときの原動力となるのは、かつては自分がその相手(「君」)によって自己の存在を呼びかけられたこと、その原初が想起され、無意識の領域において再―反復されようとしているのだ。なぜなら、存在の(再)定立とはかくも素晴らしいものであるから。自己が自己に居場所を幾度も見つけてやること―これこそは、世界参入への、つまり“出会いとときめき”の不断の発生への希望である。つまりこのとき、自己がたえまなく差異化していき、新しい自分をどんどん発生させることで、流れゆく世界に接続し、歩調を並行させ、生きていくことができるようになる。そのことを、確かに希望と呼んでもいいはずである。
以上の記述は、希望の起源の半面を解明したものであり、また他者(「君」)について半面を解明したものである。まとめるならば、他者の呼びかけがあり、呼びかけられる自己が見出されることによって、自己は存在性を獲得し、世界に基盤を持つことができる。それは希望のひとつの名前である。
存在を与えてくれたこと―その気持ちだけならば、それは「感謝」に終わる。希望とはもっと未来的な、前方向を向いた概念である。それらについて、残りを考察の2において記述していく。
(了)