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ロコドル論

(承前)

 それでは、第一の比較対象としての全国型アイドルを見ていこう。

前にも紹介した濱野氏の『前田敦子はイエスキリストを超えた』が参考になる。

 内容に入る前に、このタイトルのもっともらしい説明だが、これは濱野氏が結論としてシステム的AKBは、宗教という枠を超えた、超宗教として捉えたことを意味している。イエスキリストを預言者とするキリスト教は世界宗教であるが、AKBはさらに一歩踏み出した、概念を超えた産物であるという。
 濱野氏のこの主張に対しては、是非読者のみなさんがそれぞれこの本を手にとって最後まで読んで判断を下して欲しい。それくらい面白い主張である。


 さて、AKBの特徴として、濱野氏は以下のことを強調する。

 
隔たりがあるにもかかわらず、近接性(「会いに行けるアイドル」)を有するというパラドクス

 どういうことかといえば、要するにアイドルという存在は遠いのに、しかし同時に近すぎる存在でもある、その逆説的な様相がいっそう魅力的だ、ということである。

 AKBがヒットする前ならまだしも、大ヒットを迎えた後のAKBは確かに遠い存在として活躍していた。大衆に対する主たるイメージ作りの場が、テレビや広告などのマス・メディアだったことは指摘しておいて良い。

さらにこの隔たりというのは、空間的な意味合いに加えて、心理的な意味合いもある。

 これは全国型アイドルに限らないのだが、アイドルはファンとリアルの愛を交わしてはいけない。 ファンはリアルなつながりを欲望しても、その回路は構造として断ち切られている。構造として、というのは、決まりとして、という意味である。
 その証拠が、アイドルとファンが実際に私的交流をもった場合は、スキャンダルとして扱われる。そのアイドルは厳しいバツを与えられ、ファンも応援することから撤退させられる。

隔たりとは、立ち位置としてファンとアイドルとのキョリが遠い、そして心理的にも両者が一つに結びつくことはあらかじめ禁じられていることを差す。

 それでは、パラドクスを形成する近接性とは何だろうか。

(続く)

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