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(哲学的断片 8/31)

・他者への共感=理解の諸形態


他者を共感=理解することにおいて、第一の形態、推測によるものがある。推論ではない。「おそらく~であろう」という心情の記述を採ることが多い。
 この第一の形態は、一言でいって、その姿が曖昧である。というのも、後に述べるように、真の共感=理解の見せかけというかたちをとることがある。 第一の形態は、普遍的であり、大衆的ですらある。

第二の形態は、もっぱらこれを把握することが重要であるのだが、自己による理解の二重化、理解の波及とでもいうようなものである。自己の内において経験をし、その深みをする。

 私の考えでは、自己の哲学は、今までの西洋哲学の含蓄のなかである程度の完成をみていると思われるので、自己理解の詳細なパラフレーズは省く。しかし、この深化した自己理解が、他者の出現=発生のきっかけを与えることについては、更なる探求が必要であると考えられる。
 ともかく、第二の形態においては、それは見かけ上は自己ーのー内における、自己ーのー内の理解にすぎないのだが、他者と「根の芽」を発するような何かがある。「これはこういうことだったのかもしれない」という心情がなされるであろう。

 第三の形態、これが真の他者への理解=共感の姿である。それは、前述のように、見かけは第一の形態、すなわち推測によるもの、のかたちをとる。しかし、それは圧倒的に他者を包み込み、やがては世界=理解にも至るような、圧倒的理解である。

 以上のすべての形態は、観察、経験可能なものであり、分かっていることだけを記述したにすぎない。
そこで各々の形態がどのように関係しているかについて考察するに、やはりそれは第一の形態と第二の形態との綜合によって、第三の形態が得られるように思われる。
 真なる理解=共感への道のりを、だから、段階的、ステップとして捉えることも可能であるように思われる。

以上
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