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@ファッションの原理

 衣服は、いつの間にか与えられるものとなってしまった。「衣食住」の概念(それは「衣服」が根本的に人間生活にとって必要不可欠物であることを示唆する)は、現代にこれほどまでに多岐にわたった様々な差異から成るファッションの世界を語り尽くせるだろうか? 答えは否である。文化記号論が指すように、商品としての衣服は浮遊する記号として機能する。そして私たち消費者は記号を消費しているのだ。例えばほとんど身に付けているとは言い難いファッションをどう理解すべきなのだろうか。

 記号は偶然性の所与として機能する。つまり、衣服は、他の人みんなが着ているから、そして自分も着させられているから・・・という風にだ。第一段階として、衣服は私たちの外部である。それは外からやってくる。とってつけたような生来説が適当な正統化理由として存立し、私たちは記号の消費に戯れる。

 ここで、『抵抗の快楽』等の著者・フィスクの説を取り上げるならば、それは多分に消費社会の原理には、消費への欲望と消費そのものに内在する抵抗的要素とが入り交じっているということである。

 人はやがて理解するであろう。そもそも、この衣服が、絶対的に必要不可欠なものとする理由は、何も無いことに。
 私たちは、二段階目に至って、抵抗への序章として、衣服を剥ぎ取る。それはもっぱら抽象的な意味合いにおいてである。私たちは自分そのものの起源、オリジナルティを探求する過程において、記号たる衣服が果たす役割をゼロにする。少なくとも、ゼロを目指す。

 ファッションは、真にこの第二段階からはじまる。つまり、真の意味で、自分と衣服との関係を問うのである。私たちは、ひつ当然的に、いわば内から要請される衣服を、探し求め、自分とともに構築する。それは自分への新たなる見直しといったいである。このとき、衣服は自己の一部として、新たなる自己の一部として生成変化を遂げるであろう。

 ファッションとは、衣服を着る自分とは何かと根源的に問い直すことでもある。そしてその問い直しは、積極的実践として、生涯を通じて行われるものになるだろう。だからといって常成る差異の内に戯れる訳でもないということはお分かりだろう。ファッションはいつも一つの自己への批評である。

(了)
 




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