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@本を読むこと、文章を書くこと

 (本記事はエッセイなので、記述がやや適当です。)

 本を読むということが、ヨリ精神的なものに比重をおいた行為なのか、それとも身体的なものに比重をおいたものなのかという問いがあったとすれば、今の私は確実に後者を選ぶ。

 文章は、当然目でおっている。本を読むのは目の動きである。 たしかに、黙読というように、心の中で字句を反芻する。それはかなり精神的な行いのようにも思える。
 心の中で、字句を反芻するときは、シックリ感じていない時だ。難解な時とか、じっくり味わいたい時とか。
しかし、それ以外の場合は、文章はすっと、まさに自然に入ってくる。このとき、果たして言語は精神を経由するのだろうか?

私は日本人で日本語を母語として生きてきたから、日本語の作品を読むのに苦労はしない。そして、文章がすっと頭に入ってるなと感じている時のことを思うと、これはもう言語がダイレクトに身体に浸透しているのだと思うのだ。
言葉を浴びる、という表現があるが、まさにそれだ。

黙読と、ある意味での速読はそのような点において区別されるのだろう。つまり、黙読は精神を経由させる、速読は身体のみに関わってくる。
 物理的重みを持たない字句などというものがどうやって物体たるカラダに影響を及ぼすのか、と、物理=客観主義的科学は異を唱えるだろう。

 しかし、哲学を学ぶものとして主張するならば、速読とは優れて身体的行為であり、読む行為は身体に影響を与えるからこそいいのである。私たちは、いい本に出会ったとき、実にスピーディーに駆け抜け、文字通り体を震わせる。涙する。

 精神の存在を否定しているわけでない。精神というカテゴリは確実に存在するであろう。しかし、読む行為というのは現代の私たちが思う以上に、優れて物理的=身体的な行為なのだと思う。

こう私が力説するのは、(人間の)身体はまだまだ解明されていない、だから希望にも絶望にもつながるパワーを備えているからである。 奴隷のように扱われたら、人の体は本当に奴隷そのものになってしまう(爪はボロボロ、体はガタガタ)し、そこからの脱却を図るためには、祈りでなく、そう、精神的作用たる祈りでなく、身体的作用を伴った<祈り=革命>なのだ。

 それと、説明がとても面倒なのだけれども、精神をやや否定的に記述するのは、精神については哲学者は実に3000年もの間考え続けてきたのに、今となって<精神の哲学>はフーコーやドゥルーズらの現代思想によって終わりの鉄槌をくらっているからである。さしあたりヘーゲルの『精神現象学』やフッサールの著作を研究すればまた違うのかもしれないが、とにかく私の所感では、人間の精神だけをとりあげて人間社会の希望を考えるのは困難を極めているということ。

と、書きながら気づいたのだが、どうも黙読と速読は、本当に大変に違った行為だ。そして私たちは、何の苦もなく、それらを混合させて読書を行っていたりする。

ただ速読のみが、流行りの受験産業に専ら吹聴されているのもどうかなとは思う。しかし、速読は確かに何か驚異的な力をもっているのだろう。それを受験以外でどう使うのかが本当は問われるべきであるのに。
 スピードラーニングという言葉が流行る前から、人は黙読と速読を混合させ、有意な読書をしてきたに違いない。 佐々木中が『切り取れ、あの祈る手を』で力説していたように、本を読むということは、実に恐ろしいことなのだ。

 本が読めない、といっている人たちは、たぶん読書をもっぱら黙読、つまり精神的作用のみにかかわるものだと思っているのではないだろうか。 読書は身体的作用にも関わる。例えば、視野が広ければ広いほど、文字を読み取る能力、把握する能力は確実にあがるからである。

とまぁつらつらと書いたけど、このへんで。

(了)




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