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本の感想、雑感、小論考など。 小説、簡単なエッセイはこちらで→「テイタム・オニール」http://ameblo.jp/madofrapunzel2601/
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君への欲望、失敗しても
 話を一度脱線させると、次のパラグラフは素晴らしい一節である。”悲しみの雨 打たれて足元を見た/土のその上に/そう確かに僕はいた” 僕はいたというのは存在(の定立)の再確認であるが、この悲しみの雨と確固たる土との対比は私たちの心を揺るがせる。このパラグラフでは「君」は登場せずとも、不確かな状況の中で何とか自分を確立させてやることのできる事柄を表している。やはりこれも「君」への感謝につながっていくだろう。
 
問いは、なぜ「君の名は希望」では、「君」と「僕」との恋は成就しないか、または、明確にその可否が描かれていないのかという点にも関わってくる。“一人では生きられなくなった”と感じた「僕」は、「君」をその能動性において欲する=恋愛を行う、つまり対象を欲望する。ここには、恋の気持ちの発展がある。というのも、かつて呼びかけをおこなった「君」へ、無意識的に反復するという受動性の契機から、私こそが「君」の存在定立をしたいという、能動性の契機に変化するのだ。詩の時間軸ではさかのぼることになるが、“僕が拒否してた/この世界は美しい”という字句に示されるように、存在定立のなされた「僕」は、自己の周りの事物への呼びかけすらしていこうと思うくらい、世界に対して肯定をおぼえていることになる。“未来はいつだって/新たなときめきと出会いの場”なのであるから。「君の名は希望」は理想を歌わない。存在の定立に関わる関係性は、いつも片方からもう片方へ、そしてそれが半永久的に続く連鎖(「存在の連鎖」)を示すものである。見返りを求めるものではない、ただしその求める欲求自体は否定されない。だから、それを希望と名付けられるのかもしれない。第一の希望は、自己が定立されたことによる、それを原動力としての世界参入(あるいは構築)への期待感であったが、第二の希望はさらなる理想=高みへの、つまり輝かしい生への接続への期待感としてある。
 このとき、第一の希望と第二の希望を綜合した、第三の希望とでも呼ぶべきものが出現する。“もし君が振り向かなくても/その微笑みを僕は忘れない”。この時、「君」への想いは続いたまた、原動力として「僕」はこれからも世界に積極的に関わっていき、あるいは傷ついていくだろう。それは感謝と希望のいりまじったものである。そして、「僕」は新たな恋にむけて、この恋を無限に将来に向かって反復=変奏していくだろう。決して届くことのない、しかし何回でもとどこうとする気持ち。これを、希望とはっきり定義できるのだ。
 
 “希望とは/明日の空”という字句はつまり、希望とはまったくもって不確かなものであるということも示す。ただ、それが、明日の空という言葉が抱かせるように、とても前向きで肯定感に満ちた可能性を大きく指すのは、生のもつエネルギーゆえである。
 サビではとくに、恋は生きることのエネルギーそのものとして措定されている。神聖さと肯定感と主題の恋愛の3つが絶妙に重なるのが、「君の名は希望」という作品なのである。
 
(了)
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