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以下は「あとがき」の部分です。まぁあとがきといってもさっき10分くらいで書いたんですがwww
だから出版社に提出した際は、あとがきなどつけてませんでした。
***
あとがき
これは私の初めての本格的な随筆論文である。個人の生、実存について短いけれども存分に思考してみた結果である。
これを書きあげてしばらく経ってから、実は自分はこういう動機のようなものがあってこれを自分に書かしめたのではないか、という気がするのである。難しく言えば、そういうある種のストーリーを作出できうる、ということだ。要は、この論文は、僕が僕であるために書かれたもの、それがまず何よりも根本にある。どういうことかというと、この論文の中では、個人の生のあり方がどのようなものかを検討し、特殊な観点から4つにタイプ分けしたのだった。僕から見れば、世の中の人はこの4つの類型の中にライフスタイルが見出されるということだ。しかしそれをかなり難解な文章で書いた、それは意図的である。僕はドゥルーズに多大な影響を受けたわけで、例えば日本の評論家の宇野常寛氏や哲学者の國分功一郎氏のような分かりやすい文章スタイルの魅力は十分に分かりつつも、ある種の難しいからこそそこから何かを根気よく見つけ出そうとする読み方を、読者の皆さんに提示してみたかったのである。ほとんどの人には狂った文字の羅列と変な絵としか見えないと思う。しかしまあそれはよい。長いあいだテクストの読み手であった私は、その経験の中で、読み方にも様々な種類があるものだ、と思ったわけだ。
だから結局、僕は自分の課題、つまりこの自分はなぜ生きているのだろうか、なんのために、という問いに、満足を持って答えることができたのだと思う。僕は最近なぜか、家族や大切な友人、仕事先の人のことを以前よりもよく考えるようになった。要するに論文の提出までは自分のことで精一杯の人生を送っていたということかもしれない。
自分が長年モヤモヤし続けたその謎の答えがわかった。だから、次にすることはほかのことであろう。ただそれだけのことだ。
あとがきがただの素人の日記のようなテイストで申し訳ない。
いつか、だれか、第三の生の形式を。
光枝 ういろう 3月10日 倉敷にて
***
まぁ名前は光枝ういろうですけどね・・・ mistyとも言うんですけどね・・・ どっちでもいいです。
こちらのコメント欄に続き読みたいとゆってくださっても結構です。
(了)
以下は「あとがき」の部分です。まぁあとがきといってもさっき10分くらいで書いたんですがwww
だから出版社に提出した際は、あとがきなどつけてませんでした。
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あとがき
これは私の初めての本格的な随筆論文である。個人の生、実存について短いけれども存分に思考してみた結果である。
これを書きあげてしばらく経ってから、実は自分はこういう動機のようなものがあってこれを自分に書かしめたのではないか、という気がするのである。難しく言えば、そういうある種のストーリーを作出できうる、ということだ。要は、この論文は、僕が僕であるために書かれたもの、それがまず何よりも根本にある。どういうことかというと、この論文の中では、個人の生のあり方がどのようなものかを検討し、特殊な観点から4つにタイプ分けしたのだった。僕から見れば、世の中の人はこの4つの類型の中にライフスタイルが見出されるということだ。しかしそれをかなり難解な文章で書いた、それは意図的である。僕はドゥルーズに多大な影響を受けたわけで、例えば日本の評論家の宇野常寛氏や哲学者の國分功一郎氏のような分かりやすい文章スタイルの魅力は十分に分かりつつも、ある種の難しいからこそそこから何かを根気よく見つけ出そうとする読み方を、読者の皆さんに提示してみたかったのである。ほとんどの人には狂った文字の羅列と変な絵としか見えないと思う。しかしまあそれはよい。長いあいだテクストの読み手であった私は、その経験の中で、読み方にも様々な種類があるものだ、と思ったわけだ。
だから結局、僕は自分の課題、つまりこの自分はなぜ生きているのだろうか、なんのために、という問いに、満足を持って答えることができたのだと思う。僕は最近なぜか、家族や大切な友人、仕事先の人のことを以前よりもよく考えるようになった。要するに論文の提出までは自分のことで精一杯の人生を送っていたということかもしれない。
自分が長年モヤモヤし続けたその謎の答えがわかった。だから、次にすることはほかのことであろう。ただそれだけのことだ。
あとがきがただの素人の日記のようなテイストで申し訳ない。
いつか、だれか、第三の生の形式を。
光枝 ういろう 3月10日 倉敷にて
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まぁ名前は光枝ういろうですけどね・・・ mistyとも言うんですけどね・・・ どっちでもいいです。
こちらのコメント欄に続き読みたいとゆってくださっても結構です。
(了)
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COMMENT

〉何でも見てやろうさん
ありがとうございます!! とても嬉しいです!!
で、ちょっと見てやろうさん(略す笑)のコメントを受けてちょっと考えたことがあるので、今から書きますね。
この論考の「極限の悦び」という概念には、性的快楽も含むんです。ただ、極限の喜びの方が、ヴァリエーションがもっとある感じです。素晴らしい映画を見た時に不思議と変な余韻に浸るときとか、絶大なチームワークを発揮した時にこみ上げる感動とか・・・。
フロイトも「反復」、つまり繰り返しという概念を大切に扱った一人でしたが、だから私たちは単純にとても楽しい感覚を何度も何度も繰り返したい、だから生きているのだ、逆に言えば、その感覚をもう味わえないと思ったら生気がなくなってくる、とかそんな考え方です。
そういう「快楽の反復」は、しかし単純に同じ快楽を繰り返す、という意味ではないということです。毎回毎回違った風に極限の悦びが感じられる、的な。
今回はけっこうラフな感じでお伝えしましたが、本文の用語を使っても説明できることだと思います。
とにかくコメントありがとうございました☆彡 これからもよかったら遊びに来てください♪
ありがとうございます!! とても嬉しいです!!
で、ちょっと見てやろうさん(略す笑)のコメントを受けてちょっと考えたことがあるので、今から書きますね。
この論考の「極限の悦び」という概念には、性的快楽も含むんです。ただ、極限の喜びの方が、ヴァリエーションがもっとある感じです。素晴らしい映画を見た時に不思議と変な余韻に浸るときとか、絶大なチームワークを発揮した時にこみ上げる感動とか・・・。
フロイトも「反復」、つまり繰り返しという概念を大切に扱った一人でしたが、だから私たちは単純にとても楽しい感覚を何度も何度も繰り返したい、だから生きているのだ、逆に言えば、その感覚をもう味わえないと思ったら生気がなくなってくる、とかそんな考え方です。
そういう「快楽の反復」は、しかし単純に同じ快楽を繰り返す、という意味ではないということです。毎回毎回違った風に極限の悦びが感じられる、的な。
今回はけっこうラフな感じでお伝えしましたが、本文の用語を使っても説明できることだと思います。
とにかくコメントありがとうございました☆彡 これからもよかったら遊びに来てください♪