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コミュニケーション社会、という言葉があって、よく現代はコミュニケーション社会だ、と言われることがあるのだけど、たしかにコミュケーションがますます重要になっているという点はあっているのだけれど、内容を見ると、名前を変えたほうがいいのではないかと思う。

ディスコミュニケーション社会、と変えたほうがいいのではないか、と。

まぁこれは見るからに、僕が勉強する現代思想から影響を受けている。でも、そのほうが、現代社会の実態を、より正確に捉えていると思うのだ。

 これからなぜ、名前を変えたほうがいいのか、説明をしていこう。

まず、コミュニケーション。人と人とのやりとり。会話だけではなく、そこにはおよそ人間関係から生じるあらゆる交渉関係が含まれる。それをコミュニケーションという。メールのやりとり、日常の挨拶、さらにはクレームや先生の授業、といったものも広いコミュニケーションのうちに含まれる(と私は考えている)。

 さて、コミュニケーションの特質は何かといえば、それは一方からた方へ、または他方から一方へと言葉(words)が伝わるということだ。A→B、あるいは/かつB→A。 伝わるものは主に言葉である。あとに代表的なものとしては感情だとか、精神だとか、そういった精神的なもの。精神に属するものが、伝える/伝えられる内容物になる。

 さて、現代の社会は、このコミュニケーションが「成立するのが当たり前」だということを前提にしている。
ここが僕が批判するところだ。

コミュニケーションは、実はそう思うほど成立していない。むしろ成立しない場合のほうが多い(ディスコミュニケーション、つまりコミュニケーション不全の場合の方が多い)。

 このことは、以下の論証によって示される。

 一般には、A→Bへ、ある言葉・感情aがそのまま伝わるもの、と考えられている。しかし、もちろん人間にテレパシー能力が備わっているというわけではない。ではどうやって言葉や感情は伝わっているか。
 それは、例えばAという人がa(お腹がすいたんだけどなにか食べに行かない?)という気持ちを持って、それをBという人に伝えるのだが、Bという人はそれを「推論」して、「Aはお腹がすいているから俺をマックに誘っているのかな」と瞬時に「解釈」しているわけなのだ。

こういう例を見てみよう。
 A「私、イラク人タイプなのよねー。」
B「は???」
A「え、なに?私、なにかそんなに変なこと言った??」
B「いやいまイラク人が好きって・・・。イラクを支持でもしているのか。」
A「はあ??違うわよ、私は単純に、イラク人みたいな顔つきの外国人がタイプって話をしてただけよ」
B「そんなこと言わなかったじゃないか!知るかよ!イラクってきいたら普通政治のネタかと思うだろ!」
A「私は顔のタイプの話をしたかったの!」

どうだろうか。 喧嘩が起こったのは、コミュニケーションに不全が生じたからである。そこでは、Aは顔のタイプという糸を持って「イラク人」という言葉を使ったのに、Bは政治のネタだと思って「政治のイラク」と「解釈」してしまったわけだ。

 コミュニケーションは完全ではない。それは、一方に対する他方の解釈行為によって左右される。自分が何か糸を持って発言しても、それをどう受け取るかは他者によるのである。これを、「コミュニケーション行為の他者決定性」とでもよんでおこう。

他者決定性が、コミュニケーションの実態は実はディスコミュニケーション状態の方が多いことの直接の論拠である。

私が本論で何を主張したいかというと、現代の社会のタテマエは、「コミュニケーションが成立して当たり前」、つまり商談は電話で成立するし、契約は当事者の口頭でも成立するし、といったことにしている。

しかしそれはちょっと危険なのではなかろうか。

 つまり、今の制度は、コミュニケーション成立を原則としていて、ディスコミュニケーション時は例外のときだとしているのである。そして、コミュニケーション不全、例えば商談で両当事者に思いの食い違いが後々わかったとき(君はあの時ああいった条件をつけると言ったじゃないか!「いえ、それはだから御社が○○をしていただけるからだとの条件付きのことですが・・・」)とかは、法律上では契約破棄とか、契約解除、あるいは損害賠償といった形で、事後的に救済システムによって回復を図るということにしている。

アカンくね??

ではなくて、私が言いたいのは、コミュニケーションはだいたい不全が起こるのが原則なのだから、原則と例外の位置を逆転させてから物事を考えていったほうがいいということだ。

不全が当たり前。そして、一致に近づいていったら、契約成立が完成する、といったような法律システムを作ることはできると思うのだが。どうなのだろうか。

原則:ディスコミュニケーション 例外:コミュニケーション成立

少なくとも意識の上では、このほうが実態に即していると考えられる。以上が私の主張である。

(おしまい)
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 はじめまして、ブログ村から来ました
「物語とか雑文とか」というブログをやっています。

欧米(特にアメリカ)はすでに何十年も前からその状態と聞きます。
契約書が分厚くて、商品説明に、言わずもがなのことまで書いてあるとか。
言葉のやりとりのみをコミュニケーションととらえれば、時代を問わずコミュニケーション不全に陥るのではないでしょうか。
生身の人間同士は、言葉以外に多くのコミュニケーション手段を駆使しており、Aが明らかなイラン人顔にちょっと手を当てれば、こういう誤解は生じないものと思われます。
電話とかメールとか、互いの顔色も、しぐさも見えない言葉だけのやり取りが多くなったという事なのでしょう。
「世間の常識」が、馬鹿にされ続けた結果なのかもしれません。
会話だけで、ト書きの無い戯曲みたいですね。

仲のいい仲間内の会話が、怪しい指示代名詞だけで成り立ったりする、そういうコミュニケーションが、私は案外好きです。
しのぶもじずり URL 2013/03/05(Tue)12:16:42 編集
 無題
はじめまして☆彡 コメントありがとうございます!

そうですねぇ。 コミュニケーションが不全に陥る言語学的な説明は、結局その人間関係の親密具合による、といったものになりそうですから、じずりさん(?笑)の指摘はまっとうなように思われます。

いかにして、こみゅにけーしょん成立といえるような暗号を成り立たせていくのか? そこがミソだと思います。
 「仲良くやっていく」、このことを十分に掘り下げて考えるべきかもしれませんね。

ブログ遊びに行かせていただきますね☆彡
光枝ういろう 2013/03/05(Tue)15:01:35 編集
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