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不覚にも、また連載をはじめます←

今回は随筆です。

連載は、途中で構想が変わったりして、ポキリと折れて、なかなかうまくいかないが。
ある程度長い随筆を書くためにも、やろうかなと。。

小説Vague malの方も、ちょっと作業遅いですよね。すみません。
今テイタム・オニールでやってるほうの小説に力を注いでいるので、そっちがメインになっちゃうのです。

ということで随筆は久しぶり。
今日は第一回目です。



運動としての相対化

■基礎づけ

 絶対主義対相対主義という凡庸な問いに一応の答えを提示できると思われた。本論はその答え(というより、考えの傾き)を示し、そこからまだ先に進めるものである。
 絶対主義は、ある物事を事象の体系の中心に置く考えである。それに対して相対主義は中心性をずらす方向に働く。物語を語る際、絶対主義がもはや採用されないということについては、今さら説明を要することはないように思われる。というか、絶対主義はひとまず停止させたほうがよい。例えばあらゆる学は何らかの絶対的な真理を求めたものの、一つとして一般化=普遍化した定理にいたっていない。
 しかし相対主義にも限界はある。いわば相対主義の相対主義は一つの絶対主義になるという、一つの問題がある。あらゆるものを相対的とみなすのは、単なるニヒリズムにつながる。ニヒリズムとは絶対主義の変種である。
 ここではあらたな次元を、絶対主義を超えたものを見出さなければならない。それを私は「相対化」(の思考、哲学)と呼ぶ。絶対主義がある一定の中心点としてあらわされるのであれば、相対主義はそれを外延の方向まで動かすベクトルにあたる。外延(円周)そのものはニヒリズムである。



 実は、相対主義が死せるのは、その動きを停止させることにある。そうではなく、相対主義の有効な働きは、(絶対化された考えを)緩和させるその過程にある。Aだ、Aだという絶対主義者に対し、Aからいったん離れようと提示するのが有効な相対主義者である。それはひとつの運動、流れである。そして相対化は、まさしく止まることのない移動体としてある。相対化の思考は、物事を停止させない。常に動きの中にある。AからBへ、BからCへ、CからXへ…。定点を相対化の思考に求めてはならないのだ。
 考えもまた絶えず変更される余地を残すものである。変更が真理なのではない。そうではなく、変更されるということこそが、真理の条件なのである。

(続く)
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昨日はフェミニズムに関する記事を書いたわけだけど、

私は私なりのある直観で、フェミニズム研究をすることが、この2010年代にあっても、世界的に重要だと思っている。

 とはいっても、本棚にあるジェンダー学やフェミニズムは従来の方法でやり尽くされていて、残りを補完していくことに意義はあるだろうが、それは現時的インパクトを欠く。

 私としては、哲学とフェミニズム思想・理論・運動を結びつけたい。とくに、マイナー哲学(ドゥルーズ、スピノザ、ヒューム、、)を深く分析し、あるいは展開することにより。

ここでひとつの難題が発生する。 マイナーの括りとすることに問題はないのかと?
 たしかにマイナー研究と称することで、一定の社会の上位ー下位、もしくは抑圧―被抑圧構造としての図式をあてはめ、マイナーとしての戦いを考察することは可能である。

 しかし、マイナーをマイナーとして自覚することの問題はまた別問題である。マイナーを自覚することはいつも困難を伴う。

私も、社会の色々な面で、当事者として、幾つかのマイナーたる存在を引き受けてきた、今も引き受け続けている、という自認がある。
 そこに共闘をはっていくこと、あるいは共闘をはっていかなくても、「共に苦しんでいるよね!」とお互い呼応できること―。
これが何より大切である。
 こうした困難を打ち明けていかなければならない、しかも研究対象はしばしば自分の支配してきたものとされる女性についての学であるから、そう一筋縄では行かないと思う。

だから私のフェミニズムに対する大まかな態度は、

男性が女性を支配・抑圧するという社会構造が社会を規定している

という点を大前提とする。 そして私はあくまで観察者の視点にたちつつ、最終的には既存の社会構造を敵とし、それを打ち砕き新たな世界を細かく描写しさらにそれを作り上げる実践をも、目指す。

 既存の社会構造が敵だというのは、フーコーが非常に明らかにしてくれたきがする。
あとはそれを僕の中できちんと言葉にするだけである。
フーコーから先の問題は、まさに手探りで始めなければならない。
 ゆえに、私はその手探りとして、まずフェミニズムを選択する。

こんにちは。以下の文章は、私の大学のゼミの卒業文集(と称した同人誌w)に提出した記事です。というものの、ここで連載していた『もののけ姫』に関する論考シリーズの、いちおうの完結です。A4で1~2枚との指定があったので、頑張ってまとめてみました。

さて。今回は、『もののけ姫』のメッセージを探すことに焦点がありました。
 そこでは、人間と自然との(とメター宇宙との)ゆるやかな共生、それから人間による管理社会化のわからなさ、を導き出しました。

私の大きな関心事は、”資本主義と森”にあります。つまり、『もののけ姫』でいうところのタタラ場、社会というよりも、もっとピンポイントに資本主義社会というコトです。 資本主義には何かアヤしいものがある。森の世界になじまないところがある。もっと掘り下げていきたい。
 従って、例えばドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』とかもいっかいこのブログで丁寧に読解するかもしれません。


***

『もののけ姫』哲学的解題―ゆるやかな共生、管理社会

*もののけ姫のあらすじ
 冒頭で、祟り神の退治の際に深い傷を負ったアシタカは、その傷の治癒と祟り神の発生の謎を解明すべく旅に出る。そこで、エボシ率いる、鉄砲生産を主とするタタラ場にたどりつく。タタラ場では人間と森の動物たちとの深い対立が浮き彫りになっていた。一方でアシタカは、犬の神に育てられた少女サンに出会う。そしてサンの看護でアシタカは森の精霊・シシ神と邂逅する。エボシが帝の命を受け、そのシシ神の力でさえをももぎ取ろうとして、場面は進んでいく。
 
象徴的な場面から話をはじめよう。首が取れたディダラボッチがありとあらゆる破壊活動を行進させる中、人間たるアシタカと人間と森の動物の媒介者的地位を持つサンとが、共同して首を返上するシーン。すべての結論はそこから導き出される。そう、シシ神=ディダラボッチとは気まぐれの神なのだ。神は気まぐれとは誰がといったものだったか。
 シシ神は生殺与奪の権能を有し、ディダラボッチは森を徘徊する。ここまではよい。しかし、首が取れた瞬間の、あの恐るべき姿。あらゆるものを巻き込み、下し、破壊する神。もし、本質的にシシ神=ディダラボッチが破壊神の要素も持ち合わせているのだとするならば。ところで、シシ神は一つで世界足りうる、しかも我々の言う意味合いとは異なる次元において。シシ神があるときは生命を与え、ある時は生命を奪い、あるときは〈クビナキディダラボッチ〉として破壊の洪水を引き起こす。シシ神の意味論を考えるのではなく、機能として彼は自らひとつの世界の存在と権限をいっきょに引き受けると考えると、シシ神はひとつのメタ―宇宙と同列になる。
 エボシ率いるタタラ場の人間と社会のイメージ像はごくありふれたものである。すなわち、彼らは1、自己自身による統治=管理可能性を前提とした世界を維持しているのである。のみならず、2、その自己の世界の範囲の拡大をも活動目的に含み入れている。これが他の世界(宇宙)とは違う箇所である。エボシは不幸な女性たちを積極的に受け入れ、タタラ場の安全と発展を願っている。
 さて、一方で、自然たる森の世界も、ひとつの立派な自律した宇宙である。動物たちには動物たちなりの世界構成があり、そこではさまざまな生命体がひしめきあうようにして森という一つの素晴らしいうなりを形成している。おっとこぬしの例などを見ると分かるが、ここではシシ神は動物たちとの関係においても“天使(良き神)”の存在となっているということである。動物たちは一方的に秘蹟を願うのみであり、応答可能性は一切ない。というか、例えば負った傷を癒してもらおうとしても、反対に生命を奪われるかもしれないというリスクを追っている。それにもかかわらずシシ神は森の中で絶対的な存在であり続けるのである。それは、人間たちとシシ神との関係性においてもそうである。とにかくシシ神は“気まぐれの神”であり、生命の審判者たるシシ神のメタ―宇宙は、社会や自然よりも次元が一つ上である。さて、これでわかるように、『もののけ姫』で描かれているのは人間対自然という単純な対立などではないのである。少なくとも『もののけ姫』のプレートは3つの宇宙から成り立っており、そこをうまく理解しないと先に進めない。
 どういうことか。例えば、『もののけ姫』では描かれていなくとも、社会と自然とに相互影響関係が存在するのは当たり前である。例えば、タタラ場で鉄砲の生産のために大量に発生する煙は、森の樹木に悪影響を与えるだろうし、単純に勝手に自己破壊するプログラムを持つ植生に対して人間が手を入れてそれを活性化させることなどが古来からある。反対に自然から社会への影響はどうか。太陽の光、雨、光合成による酸素の提供、あるいは大災害や地震など。基本的に、自然に対する人間の影響よりも、逆の方が影響の質が大きい。この点において、社会よりも自然の方が尊いとする自然主義にも一理あることはうなずけよう[1]。この二つの宇宙が相互影響関係から浸透関係へ進むのは、第三項たるシシ神の宇宙を挿入した時である。シシ神は人間にも動物にも、“気まぐれの神”として振舞う。動物はそれでよしとするが、人間はそれでは満足しない。だから、人間が森を攻撃して森の略奪を目論むように、まさかシシ神を奪うことまで血迷ってしまうのだ。
 しかし、物語の最後でシシ神は最悪の〈クビナキディダラボッチ〉と変化する。この存在には、動物はおろか人間はなすすべもない。そこに、アシタカとサンとの共同行為の意味があるのである。サンは、人間はやはり嫌いだと言って山に戻るが、アシタカはおちあう関係でいようと提案し、サンもうなずく。サンがタタラ場の住人になじむことはほとんど考えられないかもしれない。しかし、〈クビナキディダラボッチ〉は最終的に、二人の共同行為によって、破壊活動を終えて姿をくらましたのである。ラストシーンだけでは、実はシシ神が消滅したのかどうかは解らないのだ。残されたのはボロボロになった人間と、母なる大地=自然である。解釈としては、アシタカとサンのように、三面関係から残された人間と動物とが、〈クビナキディダラボッチ〉のような悪魔が二度と出現せぬようゆるやかな共生を構築していくこと、これがまずある。神は存在しているのかしていないのかも分からない、しかし例えばエボシのような森への政策を中断することも大事であろう。さらにそして、人間の自己統治=管理の拡大もその限界も、まったく解答放置なのである。
 『もののけ姫』は優れて現代的な作品である。そして最後に付言すれば、この3つの宇宙それぞれにはどの宇宙の要素も含まれていて、管理可能性/不可能性の問題も天使や悪魔の出現の出来事も全てそこに含まれている、と私は思うのだ。
(了)


[1] しかし、だからといって、人間の有する、高い自己統治=管理能力と、自己拡大目的性を軽んじてはならないだろう。人間が構成要素である社会はやはり一つの自律した宇宙なのである。

 
だいだらぼっちから見る世界像

 ここへきて、ちょっと旋回する。視点を、まずだいだらぼっちに絞ってみる。

だいだらぼっちは、もともと(?)生殺与奪を能力とするしし神=神が、夜になると変化する破壊神である。もしくは悪魔。
 やつは、天使と悪魔の両面を持ち合わせている。しかもそのどちらの能力もハンパではない。

分かるだろうか。 しし神=だいだらぼっちとは、神すらともちょっと次元を超えた存在なのである。

ではどういう存在かというと、神の面も持ち合わせながら、地獄の王の面もすなわち持ち合わせる、これは要するに<世界>のことである。

そう、まさに、しし神=だいだらぼっちとは、徹底的な自作自演なのだ。自分でプラスの力を与え、自分でマイナスを行い相殺する。

 しかしそこに、しし神=だいだらぼっち以外の存在が現れる。すなわち、人間と動物たちとだ。人間は、しし神の奇跡的な力を賭けて望んでいる(例えば受けた深い傷を直してもらおうと思って、しし神がそこで逆に生命を奪ったとしても、しし神の持つ崇高さは何一つ変わらない)。 動物もまたそうだ。ここに利害の一致が存在する。

 人間と、動物は、しし神=だいだらぼっちとは別のフィールドで、争っている。いわば大地だ。それに対してしし神=だいだらぼっちは、どちらかというと天空にいて人間と動物たちとのやりとりに非常に気まぐれに作用を与える。

話のレヴェルが一つ上の段にあがったことになる。わかるだろうか。しし神=だいだらぼっちは、それ一つで独自の<世界だった>。しかしそこに、<人間>(あるいは社会)と、<動物>(あるいは自然)と別の世界が存在する。三者関係の、これぞメター世界である。『もののけ姫』の世界とは、三元論なのだ。

もうなんか今日は疲れてきたのでww、こっから適当な叙述になるかもしれない。

私が主張したいのは、例えば<動物>の世界なら、それだけでひとつの自律した世界を持ちつつも、ほかの世界から影響を与えられるということだ。ここでは、森が至上、自然が最高という思想もまた相対化される。
 

同じように、人間の社会も、至上であるということには直接的にはならない。なぜなら、動物たちのフィールドたる自然(森)から反発は受けるし、<気まぐれの神>しし神=だいだらぼっちが、変なことをしてくるかもしれないからである。

ここまでいくと、例えば人間と動物の対立関係、とかいった単純な図式ではおよそ『もののけ姫』を語れないことになる。
 人間と気まぐれの神との関係。これは何か。

ほとんどアクセス不可能に近いということだ。向こうからは何か影響を与えられる/受けるのに対し、こっちは信じるぐらいしかやることがない。結果を待つのみである。

媒介者としてのサン。

このへんで今回はおさらば。ちなみに私としてはやっと『もののけ姫』のメッセージについて思考を巡らしてきたのかがわかってきかけました。

(了)
15分くらいしか間は時間がないのでちょっとだけ論を進めておきます。


要するに、前回のまとめをすると、『もののけ姫』のメッセージがどういったものなのかを考えた際、ひとつの解釈として、でいだらぼっち(しし神の夜ヴァージョン)のような悪魔に対しては、動物(森の陣営)も、人間(社会)の陣営も、ひとつのゆるやかな共生・あるいは共同戦線を張って、戦う、ないしそのような態度になる(べし、あるいはそうすることができる)、というものだ。

ゆるやかな共生。それは、あくまで破壊神のようなスンゲーわりーやつが出てこない限りは、互いにあまり干渉しないということである。

つまり、日常は無関係モードということだ(無関係の倫理)。

しかしいくら心的には無関係といっても、人間の社会と動物たちの森には、無視できないさまざまな影響関係がある。

まず、森(自然)から社会への影響。 太陽の光。大地の恵み。酸素。なんとまぁ、今の人間なら必須のものばかりではないか。それだけではない、自然を鑑賞するときの何ともいえない生へのエネルギー。

やはり自然には無視できない何かがある。

しかし社会から森への影響もある。自然は勝手に破滅することもあるので(食物連鎖はどうとらえるのだろうか?)、たとえば植林だったり、絶滅危惧種を保護したりと、人間の側も、主に科学の発展によって得た技術を有効に活用して自然へいい影響を与えてもいる。


ウィンウィンの関係の素描はこんなところだ。人間の高度科学を一概に非難することはできないし、しかし今の状態の人間にとっては自然は不可欠である。

 さて、『もののけ姫』で描かれていた、えぼし率いるたたらの村は、自然を攻略しつつ、自分たちの社会を発展させようとしている。
 自然を従属させているわけだ。そこに、動物らの反発がくる。

とりあえず思いつくままに述べていったので今回はこの辺で。論点をしぼりだすなら・・・

・人間と自然に優位関係はあるか?人間至上主義(人間が全種別の中で一番偉い、だから人間は世界の王だ)はどのようにして生まれたのだろうか?傲慢の起源。

・ゆるやかな共生のもっと細かい描写。

・ゆるやかな共生は、どこまで妥当性を持っているか?私たち人間は、どのようにすれば、最適解を得られるのだろうか?

・資本主義で苦しんでいるのは、いったいなぜ???(これが一番最後の問い)

では。 ういろう
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