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本の感想、雑感、小論考など。 小説、簡単なエッセイはこちらで→「テイタム・オニール」http://ameblo.jp/madofrapunzel2601/
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哀しみのこと

蜜江田 初郎

 

 

……光の微粒子と花

 

光の微粒子。それは哀しみの微粒子でもある。光の微粒子が集まって、一つの波を形成する――さざ波のざわめき。それぞれの波がまた合流して一つとなって、この硬い胸の裡を強く打ち、私はある感情にさらされる。死、そして死の方へ。違う、これは絶対的な死に対する憐れみ・悲しみではないのだ。優しさがある。何に対する優しさだというのだろうか。人、人生に対する、人が静かに人生を終えることに対する優しい眼差しなのだろうか。その天使のような眼差しが私をも捉えると、私は今から死ぬわけでもないのに、とてつもない繊細さの世界に引きずり込まれていく。生きる、死ぬ、花。花は添えられなければならない、捧げられなければならない、私たちの手によって。私たちの手にかかって。

 ここから何かがはじまるというのだろうか。追憶の作業が? 生、人生において、ありとあらゆるものが私を幾度となく絶望にいたらしめた。幾度となく怒りを覚えた。自分の不甲斐なさを破壊してやりたいとさえ思った。そういう諸々のことが全て、この時点において、無―化されるのだろうか、跡形もなく、一抹の埃さえも残らず、最初から無かったものとして、そうつまり構成されるものとしての私とは全くの無関係になると? ならば、なぜ。それをも慈しむ、そんな時間の猶予が与えられているというのか。確かに絶望や怒りの経験は私のひとつふたつの構成であった。もうそんなことを思い返して再び泣くこともない――。

 私は救われるに値するのだろうか、私の経験した苦しみは浄化されえるのだろうか。困難と向き合ってきたことの意味は何なのだろうか。いや、〈私〉は死なないし、これからも生きていく。そうした時、出会うであろう絶望や苦しみを、こんなに慈悲ある態度で迎えられるだろうか? 確かに、いずれ全ては終わる。無に帰す。だが私はまだその準備もできていないのだ。ならばなぜ涙が止まらないのだろう。

 あの人は、何らかの人々の苦しみや困難といったものに対して、メッセージ=表現を与えている。憂いの音楽。光の微粒子を含む波は、今や落ち着いたリズムで私たちの心をうつ。死ぬ、死。死には花が捧げられなければならない。何故か。紳士さというよりも、優しさ、労りの心。全てを終えた存在に対して、現在を生き続けなければならない私たちからの、せめてもの応答行為。花を添える、ダリアの花。それによって、人生を全うした人は、はじめて救われるのだろう。ならば、私たちは、死者に対して、よい音楽、その人が愛してやまなかったロック・バンドの曲とか、あるいはショパンの悲愴とかをできる限りこころ丁寧にかけてあげて、そして花を手向けるのだ。

 私はまだそちらの人ではなかった。花を捧げる人の方だった。しかし、生きるものも、いずれは死ぬ。生と死。やがてその境界が曖昧になるとき、或いは思考作用によって曖昧になったとき、私たちは、死に行く人の苦しみに、花を捧げるという〈一つの〉行為を、それだけを忘れずにしなければならない。光の微粒子の波は、やがて消え、天井の方に上昇し、私たちの下には静寂が戻り、あるいは日常が再開されて、やがて非―日常のことは物事の奥の方へと押しやられる。そこから叫ぶ声も、その声を伝えるのも、私たちしかいない。


(続く)

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こんばんは。お久しぶりです、みすてぃ(ういろう)です。

最近は、アメーバ・ブログの「テイタム・オニール」(http://ameblo.jp/madofrapunzel2601/)をよく使っていました。

 「Vague mal」という変な小説の続きをまたゆっくり書いていこうと思うので、連載を再開します。「書も、積もりし。」でやろうと思います。



それで、ちょっと補足説明をさせてください。
Vague malは、全体構成として、
第一部 メランコリア
第二部 スキゾフレニア
   
 
    α 空中の諸都市
    β 記憶を持たない少女
    γ 黒い水、月
第三部 After becoming, to nowhere.

というものの予定なのですが、このうち第二部スキゾフレニアの、βに該当する原稿がなくなってしまいました。
ちゃんと探せばあるかもしれませんが、少なからずともこの辺で筆が滞ったのは間違いなく、このあたりにこの小説を書き続けていることの困難さもあったので、とりあえず、これはまたあとで書き直しです。

今回は、「第二部 スキゾフレニア γ黒い水、月」からはじめます。
そして、「β」か「第三部」のどちらかまでを公開したいと思います。

このVague malも、我ながらくっそ自分勝手にやりながら、書き始めたのは去年度の6月ぐらいからでした・・・。
 1年が経とうとしています。ぜひ、完成をさせたいです。

前置きが長くなりました。 本文は以下からです!!!
ちなみに筆名は蜜江田 初郎(みつえだ ういろう)です。
 
@Vague mal(連載小説) 第16回   第二部 スキゾフレニア γ 黒い水、月
”ロコドル論”と題していた連載のタイトルを変えて、3回目である。

idols relativityとは、別に”アイドル戦国時代”でもよい。近況の、日本の2010年から現在までの、文化態様におけるアイドルと名指されるものの占める空間を指す。

 そこには私の一つの、まだ明確になっていない大雑把な見方がある。それは、アイドルというものの概念が価値変容を起こし「つつ」あるということ(多義的になりつつかつ一つの共通項をもっているように思われること)でもある。

 例えば、秋元康が真の卓越したプロデューサー、<起業家>であるかどうかは懐疑にかけられてよい。なぜなら、彼はおそらく彼の持ち前の勘とタイミングのみによってしばしばAKBグループを牽引し、しかし結果としてはAKBの空前的ヒットとその持続をもたらしめた。
 面白いのは、私たちの時代は、あたかも偶然のひと振りを歓迎しているかのようなのだ。神経症的な資本主義社会の原理からすれば、緻密なリスク計算と事前把握のみが、経済的成功をもたらすに違いない、と考えるのが普通であろう。彼はその常識を覆しているのである。
 とすれば、いったいぜんたい、私たちの時代はいったいどんな姿をしているのであろうか? 神経症的=資本主義的原理が必ずしも妥当しない範囲とは一体どんなものであろうか?

○ アイドルの内在的価値=意義

中森明夫が指摘するように(注:参考文献欠落)、アイドルの語源的意味は「偶像、空転」である。アイドルを応援するとは、偶像崇拝と等しいものであり、それでは偶像崇拝とは何かといえば、究極的には、中身がからっぽなものをエンハンスするということである。

(9/3 執筆)







ロコドル論

(承前)

 それでは、第一の比較対象としての全国型アイドルを見ていこう。

前にも紹介した濱野氏の『前田敦子はイエスキリストを超えた』が参考になる。

 内容に入る前に、このタイトルのもっともらしい説明だが、これは濱野氏が結論としてシステム的AKBは、宗教という枠を超えた、超宗教として捉えたことを意味している。イエスキリストを預言者とするキリスト教は世界宗教であるが、AKBはさらに一歩踏み出した、概念を超えた産物であるという。
 濱野氏のこの主張に対しては、是非読者のみなさんがそれぞれこの本を手にとって最後まで読んで判断を下して欲しい。それくらい面白い主張である。


 さて、AKBの特徴として、濱野氏は以下のことを強調する。

 
隔たりがあるにもかかわらず、近接性(「会いに行けるアイドル」)を有するというパラドクス

 どういうことかといえば、要するにアイドルという存在は遠いのに、しかし同時に近すぎる存在でもある、その逆説的な様相がいっそう魅力的だ、ということである。

 AKBがヒットする前ならまだしも、大ヒットを迎えた後のAKBは確かに遠い存在として活躍していた。大衆に対する主たるイメージ作りの場が、テレビや広告などのマス・メディアだったことは指摘しておいて良い。

さらにこの隔たりというのは、空間的な意味合いに加えて、心理的な意味合いもある。

 これは全国型アイドルに限らないのだが、アイドルはファンとリアルの愛を交わしてはいけない。 ファンはリアルなつながりを欲望しても、その回路は構造として断ち切られている。構造として、というのは、決まりとして、という意味である。
 その証拠が、アイドルとファンが実際に私的交流をもった場合は、スキャンダルとして扱われる。そのアイドルは厳しいバツを与えられ、ファンも応援することから撤退させられる。

隔たりとは、立ち位置としてファンとアイドルとのキョリが遠い、そして心理的にも両者が一つに結びつくことはあらかじめ禁じられていることを差す。

 それでは、パラドクスを形成する近接性とは何だろうか。

(続く)

ロコドル論 その存在の根拠理由 序章

 2010年代の時代精神(と形容されるような何か)、人間という存在の形式を論ずるものの中に、AKBを導入するのは適切な方法だ。
 その論証に成功しているのは、濱野智史と宇野常寛というよく知られた者であろう。特に濱野氏の『前田敦子はキリストを超えた』は、新書というスタイルで荒削りなものの、非常に核心をついた良作である。

ここであえて、ポストAKBの時代精神を考察してみたい。その時論じる対象となるのはもちろんロコドル、今てんやわんやとなっている地方のアイドルたちである。

 実は、濱野氏と宇野氏はまだロコドルには正面きって論考をなしておらず、それは彼らのパフォーマンス地が東京という首都であることと大きく関係する。もちろん、東京にも地下アイドルは山ほど存在するが、それに濱野氏らが着目していないというのは少しヨワい。

 なぜなら、大衆の姿を描き出すのに、首都たる東京、全国だけを対象としては何も見えてこないからである。
というより、数的にも多くの人は、地方に住んでいる。ロコドルを論ずるとき、何よりも大切なのはまずこの点にある。

ロコドルは、AKBがヘビーローテーション以後の大ヒットを迎えるのに乗じて、それこそ虫の数ほど進出してきた。
ちなみに筆者は福岡在住である。後述するが、この福岡というのも、ほかに類をみないほど、地下アイドルの数が多く、決してそれらは一過性の、はたまたお遊びのレヴェルに終わっているものではなく、空気感そのものが異様なくらい盛り上がりを見せている。

 私事が続くのはためらわれるが、私はその福岡の箱崎地区を拠点とするHRというグループに深く浅くコミットしつつ、アイドルとは何だろうかという問いをずっと考え続けてきた。

その問いは、「なぜこれほどまでにアイドルは人を魅了するのか」という問いにも置き換えられる。

 全ての人がアイドルに魅了されるわけではない、ましてやアイドルを応援しているのはごく一部のオタクと呼ばれる人々だけだろうという反論はある。しかし私が言いたいのはそのようなことではない。

オタク文化、サブカルチャーを下敷きとして現代日本の文化精神をあぶりだすという手法も、だんだんメジャーになってきている。
 おそらく、上述の反論に完璧に応えるためには、そもそもオタクというものを今一度論じ直さなければならないのだろう。それを本稿では、間接的という形にせよ、答えていくことにもなろう。
 今簡単に言えば、オタクを論じるとき、その行為主体ではなく、もっぱら客体たるサブカルチャー作品の論になっているという面は否めない。
しかし当のオタクたる人たちそのものを考察対象にいれないで、オタクを媒介とした文化精神など語れるわけがない。

 本稿では、私という人間が、HRにハマった、そしておそらくこれほどまで強烈に感動を覚えて日々を生きている、その理由は何かが記述できる、ということを超えて、もう少し射程を広く、ロコドルの根拠理由を、ポストAKB時代というキーワードをもとにしながら、結論づける。

 今回は序章だが、まずいきなり結論の要約を提示しよう。

 ロコドルに若者オタクが感動できるのは、自己の生とアイドルたちの生とをその近接性により共感覚に結びつけることが可能であり、バラバラに寸断された個人が、他者とのゆるやかな結びつきの感覚を回復できる中で、まさに自己の生が実存的に拡張できる、そのことにある。

 細かい論証は後に譲るとして、以上の結論は、さらに次のことにより補強される。

ヘビーローテーション以後のAKBは、文字通り全国型のアイドルであった。このAKBの存在は、濱野氏の『前田敦子はキリストを超えた』が一番よく表現していると思われる。
 ロコドルを強調的に論ずるためには、この全国という対比に加えて、アーティストとの対比も必要不可欠になってくる。ももクロを加えるのもよかろう。

しかし、本稿の出発点は何よりも、世の多くの人たちは、地方に生きている、このことなのである。地方アイドルは、地方に存在する。確かに、彼女らはよりさらなる発展を目指して、上京ライヴを刊行したりもする。
 はっきりいってしまえば、東京でのライヴは、さらなる全国アイドルの再生産に過ぎない。しかし私が見たいのは、首都東京を基盤としない、いままでにない文化の形式である。
 それがロコドルの隆盛に深い次元でつながっているのではないかと確信しているのである。

(序章 終わり)


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