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打ち間違いとか、単に「私」でいいのに「〈私〉」となっていたりと、原稿を読み返すだけでたくさんの間違いがあります。。
承前 (前回は 直前記事)
僕は音を聞いていた――様々な音を集めたその一枚のCDが、当時中学生の僕をよくある音楽好きの少年に育て上げた。さきほどいつもの用事を済ませて何の気なしにかけた九トラック目にさしかかって、その曲は僕にとても執拗な感情を迫ってきた。つまり、哀しみについて、考えろ、と。そう言われてみればそれは哀しみについての曲、でもある気がした。ある気がしたと言うのは、その曲は単純な言説では説明できなかったからだ。僕はその音の理解にいたってなかった、と言うべきなのだろう。そして、それの解明に、解明などと大それたことを言わずともできれば寄り添うことに、僕の思考と身体は向けられた気がした。それ以来、この“問い”について、考えている。
絶望。絶望、絶望がおそいかかってくる。はっと気づけば私は絶望そのものとすり替わっている。例えば、あの時は何もかもが終わりだった。そう思う時があった。そしてこのせまくるしい身体からこのちっぽけでむせび泣いているたましいを、何とか解放してやりたかった。それには鋭利な刃物と、それからすこしばかりの勇気が足りなかった。苦しみ。生きていることが苦しいということ。苦しみは確実に私たちを蝕んでいく、醜い蟻の大群が死んだ蝉をどこまでも食いつぶしてやがて蝉は文字通りもぬけの殻になる。身体は痙攣しやせ衰え、魂は活気をなくして呆けてしまう。諸悪の根源は、いつだって人は人から生まれてくるということなのだろうか? 私はいつまでたっても血縁から要請される、お気楽な期待のかかった、規範的な同一性を身につけて生活をしなくてはならないのだろうか。
「それは無理だ・‥・‥。」 ひとつの声が応じる。私を見てくれ、余所を見るんじゃなくて、この私の有様をもっとよく見てくれ・‥・‥お願いだ・‥・‥。などと。
やってくる絶望とセットになるものに、いったい幾つもの形容がつけられるだろうか、ヘンリー・ミラーの恐ろしいまでのリストアップのように? それは例えば堕落でもありうるし、うつ、自己倦怠、メランコリー、ノイローゼ、ヒステリア、困惑、葛藤、ジレンマ、衝動、発作、動悸、いやもういい……。大切なものから、見放されたら、誰だって悲しくなる。それが度を過ぎると、物事はもっと大きくなる。そういうものだ。そこにおいて、人はある程度の人間関係を制度的にも、それから心理構造的にも、植え付けられている。条件なしの人間など経験上ではなかなかありえないということだ。
だとすると、重要なことは、そうした幾つかの前提――生まれてきた年、生んだ人、祖父祖母、親戚、もちろん生まれてきた場所、その環境、瑣末なことには生んだ人の頭脳知数といったものまでも……どこまで前提の対象として含むかは程度の差もあろうが――をとりもなおさずいったん受け止めて、そこから物事を思考すること。当たり前のように聞こえるが、そんな作業もこうやって経験上のことをテキストにしたり、とにかくこの身から引き離して対象として捉えるということ――それが必要である。
(続く)