ちょっと早めに更新しておきます。
Vague mal
第二部 スキゾフレニア
γ 黒い水、月
(承前)
新田は橋の手すりにぐいと自分の体を近づけ、流れる河を見る――黒い水だ。今日は月もないし、この辺の通りは灯も少ないから、光というものがおよそ反射しない。いやそれだけなんだろうか。ここの水はあまりにも黒々としている。河の水は、なみなみとして流れ、遠くの方から別の方向まで、たゆたい、人気の少ない時間帯においてさえ確実に流れ続けている。新田はある種の畏怖の念に近いものを感じつつ、流れる河の動きをじっと眺めていた。黒い河。これが、私たち近代人の生活の正体なのだ、という気がしてくる。僕たちは依然として水を必要としている。一つの細胞たる僕らは暗黙に地下水路などをこそこそ作っては、必要な分の水を受け取り、輩出し、そして養分を取り込んでは肥えたり痩せたりしていく。モダン化した街において、水の存在など大して気にかけられない。しかし一つ一つの細胞に行き渡っていた水路は、やはり幾つかの結節点で集まり、多くなって、このように幅のある河川へと結集する。そしてそれらは実に黒々としていて怪しい雰囲気を放っているのだ。
新田はしばらくのあいだ、河の流れを目で追って、ときどきほうっと白い息を吐いた。頭の中ではまだ有意なことばにつながらないイメージの浮遊のみが散乱しており、彼の中身としての実体を減じさせる。やがてまた寒くなりだしたな、と新田は思って、もう寝よう、と独り言を言った。彼が去ってもなおその橋の下の河は黒々として流れ続ける。第一夜。
☆
朝が重い。朝それ自身が新田の若い体に重くのしかかってくるかのようだ。手元の電気スタンドの灯をつけて、背伸びをする。枕元に置いてあった携帯に何らかの情報が入っていることを確認する。
From まなみ To 自分
(title)無題
ちゃんと家まで帰れた?
…送ってあげられなくってごめんね。昨日も、楽しかったね!
とくにどうということはない字面の中に、新田はなにか硬く引きずっているものを感じとる。まなみは新田の心知れた同級生で、かつて新田と付き合ったこともあった。今は友人関係。まなみはいま、同じ会社の先輩と付き合っている。
彼女のメールは朝の新田のにぶい頭を余計にこんがらがらせる。まなみよ、俺の心からシャトアウトしてくれ! そういえば、最近あいつとまた付き合う時間が長くなった気がする……。新田は昨日のことをようやく思い出す。昨日は、華の金曜日、仕事もほどほどに、かつての大学時代のゼミナール友達5人と、狭い深い酒を交わしていたのだった。そこにまなみと新田も含まれている。おおかた昨日は飲みすぎたんだろう。現在二日酔いはないが、頭が痛い。それにしてもさきほどから新田の脳裏にやたら浮かぶのは、まなみの大きな瞳がこちらをしばし伺ったあとで、テーブルにうつむく、というただそれだけの動作だった。その動作がずっと繰り返されている。まなみの瞳。あいつ、何かそこまで悲しいことがあったっけ。
どちらにせよ、頭痛薬を飲まねば。新田は布団から立ち上がって、一息つく。自分という存在がとてもでたらめなモノに感じる。いつも、何かしらの〈出来事〉が起こってからしか、自分は物事を整理しようとしない。物事を整理し終わった後は、たいて何もかも終わっている。そして、物事を整理する以前、それは未分化なマグマの状態だ。未分化・未規定、つまり動きや機能も何も決められていない、いわば純粋状態……。そんなモノが自分の中にいてさらに自分を語っていることの気持ち悪さ。それなのに時々自分が、そんな状態に戻っているばっかりな気がして、心もとない。未分化なマグマ。
(つづく)